子どもと生きる

〜いのちをわかちあうくらしを訪ねて〜

(ミネルヴァ書房「発達」72号,1997:夏 連載第11回)



挨拶−三年ぶりの再会

       挨拶      壺井 繁治

   手は大きく
   節くれだっているほどよい
   そんな手と握手するとき
   嘘はいえない
   それはまっ正直に働いてきた者の
   まっ正直な挨拶だからだ
   しっかりやろうぜ,今年も!
   僕の手と君の手とは
   互に固く握りしめながら
   この言葉をかわす
   それはありきたりの言葉かも知れぬが  
   嘘いつわりのないこころからの挨拶だ

 いのちをひびかせあえるような再会をしたとき,私のこころにはいつもこの詩が浮かんできます。その人のいのちに触れ,そこに自らのいのちを重ねるような出会いは,一生忘れないものです。いつか再会したいと願うような出会いをするたびに未来への楽しみがふくらむのでしょう。この連載はそのような私の楽しみを,時に実現してくれる一助になっています。

 この夏,私はいつか取材したいと願っていた厚坂幸子さんと再会することができました。初めての出会いは,全国施設職員研究大会に参加した一九九四年にさかのぼります。私が参加した分科会では,『ファミリーサポート』をテーマとして保健婦,親,施設職員の三者がそれぞれの立場から意見発表をされたのですが,厚坂さんはその時の発表者の一人だったのです。そのときのタイトルは衝撃的なものでした。『「早期療育」ってなんですか?』−−私自身,現在の職場である児童福祉センターに異動した年であり,日々「障害」児と呼ばれる子どもたちとかかわりながら,療育ってなんだろう? と自問自答していた時期でもあったのです。重い「障害」をもつ純子ちゃんの代弁者として,また親としての思いを切々と語られた厚坂さんの話に胸を熱くし,参加者すべてが投げかけられた課題を受け止めるのに精一杯だったあの時の雰囲気が,昨日のことのように思い出されます。意見発表を聴いた後,私は厚坂さんに声をかけずにはおれませんでした。そしていつか再会しようと約束したのです。その後,純子ちゃんとのかかわりをベースに家族としてのくらしをつくりかえ,地域のなかで生きてこられた道程を折々に送ってきてくださる通信などで知ることができました。

 あれから三年,当時三年生だった純子ちゃんは現在六年生です。純子ちゃんと出会うのははじめてです。私の胸は高鳴りました。


夏の日差しのなかで


 八月初旬,夏休みの真っ盛りに私は厚坂家を訪問しました。新横浜から電車で約三〇分ほどの下永谷駅は閑静な住宅街の一角にあり,駅には純子ちゃんと厚坂さんが車で迎えに来てくださっていました。純子ちゃんは笑顔がすてきな少女でした。

 案内された居間には心が安らぐような曲が流れていました。母子の共通した趣味はクラシック音楽の鑑賞だそうです。となりの部屋にはグランドピアノが置かれていました。厚坂さんが弾かれるとのこと。毎日厚坂さんは純子ちゃんの要求に応えてピアノを弾き,それを純子ちゃんはとてもやわらかな表情で聴きいっていると話しておられました。そんなときおだやかに優しく時が流れていくのを実感し,共有すべく楽しみを持ちえている喜びのなかにひたっておられるそうです。

 純子ちゃんは私たちの話のなかに静かに位置するようにいっしょにテーブルを囲んでいました。お茶を飲み,にこっと笑顔を送ってくれるしぐさに歓迎してくれている思いが伝わってきます。語らないがゆえに,気持ちの透明さ,意志の強さ,悲しみの深さが一層寄り添うもののこころに浸透してくるように感じられるのです。厚坂さんは時折純子ちゃんの世話をしながら,怒りを通り越したやるせない現在の思いや純子ちゃんとともに育ちあった日々を語ってくださいました。


ありのままを生きるきびしさのなかで 
−インタビューより−

 今回の話し合いも厚坂さんのことばは一瞬返答ができないような重いなげかけから始まりました。

 「純子のことを考え,地域のなかで友だちといっしょに育ちあうことを大切にしたいと思って地域の小学校に通わせたんです。でも,私は学校では二重人格のようにふるまっていました。毎日「これができない」と言われ続け,そのたびにあやまり続けています。先生にとっては「どうしてここにいるの?」という感じですね。「もっと真面目に考えなさい。こんなに何もできないで,どうするんですか? 地域とか友だちとか言っているけれど,もっと自分の子どもに責任をもって真面目に考えなさい」と,校長先生に言われました。

 よく「純子ちゃんがかわいそうです」とか,教育委員会で言われたりするのですが,今までどうしてかわいそうなのかが理解できませんでした。純子のあるがままを見ていただければわかってもらえると思っていたのです。たとえば,「給食を十五分で食べられるようにしてください」とか,「一人でトイレに行けるようにあと半年間でがんばってください」と言われたんですが,口に入れたって半分ほど出てきてしまう子がいるということ,どんなに引きずってもみんなと同じようには早く歩けないんだという事実があれば,わかってもらえると思ったんですよ。だから「専門の教育が受けられなくてかわいそう」とか,「純子ちゃんに負担がかかっても・・・」と言われてもそんなに純子に負担がかかるとは思ってもいなかったのです。

地域のなかで生きるということ
 今まで,理不尽と思うことはあっても,対立して強行するような手段は選びましせんでした。対立からは相手を尊重する気持ちは生まれないと思うのです。お互い主張するのではなく,まずは私自身が相手の立場,言い分を受けとめようと相手に寄り添うことに努めました。でも,一度だけこれは明らかに人権侵害だな,こんなことが許されてもいいものかと,堪忍袋の緒が切れそうになったことがあるんです。そのとき自分がほんとうにしたいことはなんだろうと考えました。どっちが正しいか,白黒はっきりさせたいのではなく−−みんなといっしょに生きていきたい−−私が望むことはただこれだけだったんです。そのためには対立ではなくて,時間がかかってもいいから,いつかはわかりあいたい,そのためには純子がそこにいないとわかってもらえないのです。純子と時を共有してもらいたいと願い,再びこの学校に通おうと決意しました。そして私が頭を下げることがつながりあう一歩だと思ったのです。たとえ最初は受け入れてもらえなくても,目の前にいる人とどう生きていくのかということ,全然理解してくれないような人といっしょに時を過ごすこと,その過程のなかにともに生きる道があると思って六年間やってきました。やがて純子は学校の誰もが知っている「純ちゃん」になり,子どもたちは誰かれとなく,手を引いたり,よだれをふいたり,ごく自然にお友だちとして関わってくれています。いろいろあったけど,本当に素晴らしい時を共有できたと今はうれしく思っています。

 でも中学はやはり厳しいのです。子どもはわけてなんかいないし,みんな同じ中学へ行くと思っていると思います。学校って,子どもがいて学校があるんじゃなくて,学校があってそれに子どもが合わせないといけない所なんです。パッケージに合わない子は排除されてしまうのです。私なりにがんばってみましたが,私がフォローしてどうにかなるほど甘い所ではないと痛感しています。

 不登校の子たちが「行かない自由」や「学校って何?」と問うていますが,私も同感です。地域の中学には,こちらの方から願い下げ,行かない,拒否という思いです。

 私はことばにつまりました。ことばのかわりに大きくうなずいていたのです。「障害」のある子とかかわるようになってからずいぶん年月が経ち,環境も社会も変わりつつあるのに,いつのときも訴え続けなければならないのは同じことです。

 私は数年前に保育所から小学校へ送り出した一人の男の子を思い出しました。その子は
母子通園施設から民間の保育所を経て,当時私が勤務していた公立保育所の二歳児クラスに転入してきたのです。年長児の時,私はその子のクラスを担任しました。N君はゆるやかな成長をしている子どもでした。両親は兄と同じ小学校へ行かせたいと願い,本人も希望していました。就学児健診が終わった頃,N君は毎朝私にたずねるようになったのです。「ぼくなあ,おにいちゃんとおんなじがっこうにいける?」その時の表情と声が今でも思い出されます。両親はそんなN君の思いをしっかり代弁され,現在N君は地域の小学校に通い,五年生です。六年生になるK君は装具をつけて歩行しています。K君とは今もプール活動を通して時どき出会います。保育所時代はリズム遊びが大好きでした。運動会では目を輝かせてリレーをしていたK君ですが,小学校に行ってからは「嫌いな科目は体育」と答えます。彼のことばのなかに潜む思いは現在の学校教育を象徴しているように思えます。フランスの詩人ルイ・アラゴンは,「学ぶとは,誠実を胸に刻むこと。教えるとは,ともに希望を語ること」と言っています。また,ある精神科医は「現在の学校教育は差異や排除の論理を教え,子どもの価値感に浸透させるシステムそのものである」と言われます。正しいとされる答え以外はすべてまちがいであり,それを排除していく教育方法が一貫されているが,いろんな答えがあり,ちがいがあってあたりまえなのだということを幼い頃から学びあわないかぎり,子どものいじめはなくならないだろうというのが氏の論です。教育(保育もしかり)の内実を教師(保育者)の度量に委ねつづけている現実のなかにも子どもたちの生きる場が広がり得ない原因が潜んでいるようにも思われます。現に地域の小中学校に重い「障害」のある子どもが通学しているという報告も担当されていた先生から聞くことがよくあります。その人だから,その学校だからできるのではなく,だれでもどこででも受け入れられる基盤づくりこそ大切なのでしょう。

いのちをはぐくむということ


「障害」を受け止める
 純子ちゃんは仮死で生まれたそうです。厚坂さん自身も出産後次つぎに病気が発覚して,一年くらい入院され,一歳半健診を受けられたのは,落ちついて子育てを開始しようとされて間もない頃でした。「どうしてここまで放っておいたのですか?」「誰がみたってわかるじゃないですか」と保健所で注意されたそうです。そのときの思いを厚坂さんはしみじみと語っておられました。
 
 歩行もしていませんでしたし,何かおかしい感じがしていましたが,病院では大丈夫だと言われていたのです。それに私自身それまで育児ができなかった状態だったので,純子が遅れているのはそのせいだと思いこんでいました。保健所の帰り,私はどの道をどんなふうに帰ってきたのか覚えていないんです。純子を抱いて泣きながら帰ったのだけ覚えています。「目の前にいる純子とさっきまでの純子と何も変わっていないのに,重度のちえおくれといわれてそれでどうしたの?」って自分に言い聞かせているんですよ。だけど泣いているんです。とにかく涙だけが出てくるんですね。

 厚坂さんは出産されるまでは情緒「障害」の子どもたちにピアノを教えておられました。隣家の子どもの希望で始められたのですが,生徒は十人ほどにふくらだそうです。その子どもたちのお母さんたちが純子ちゃんのことを心配して保健所からの帰宅を待っておられました。それに翌日は現在の家に引っ越しする予定だったそうです。「あのお母さんたちの支えがあったから,無事に引っ越しができたのでしょうね」。

 その後純子ちゃんは療育センターに三年通うようになりました。転居し,新しい環境のなかで地道に純子ちゃんとともに生活の場を築いていこうとされた土壌は,きっと純子ちゃんが生まれる以前からさまざまな子どもとのかかわりをベースに厚坂さんのなかに耕されていたのでしょう。

いのちと向きあう
 純子の障害を告知され,気持ちの整理もつかないなか,下の子龍太郎がお腹の中にいることに気づきました。ところが,純子の出産時に子宮をかなり傷めているので,どこの病院でも堕胎をすすめられました。そして障害のある純子をめぐって義父母から離婚をせまられていた私は相当つらい日々を送っていました。そんななか,夫は意を決して自分で自分の両親との縁を切り,私と純子と生きてゆく道を選んでくれました。三人で力を合わせて生きてゆこう。でもお腹の子はどうしよう。「母体の危険がせまれば,優先してお腹の赤ちゃんは取り出します。その場合,赤ちゃんに何らかの障害が残ることを覚悟してください。しかし一番の危険は子宮破裂で母子ともにショック死することです」。このお医者さんの言葉に二人で何回話しても,答えが出せないでいました。誰が考えても堕胎するのが妥当な判断だったのでしょう。医者だってだれも引き受けてくれなかったし,何より母体が危なかったのです。最後は私が決めました。いのちがけというか,お腹の子に自分の人生をかけてもいいと思いました。というより,堕胎する決断ができなかった,宿っているいのちを自ら意志で絶つということができなかったのです。そして病院に勤めていた義弟の紹介でやっと受け入れてくださる病院が見つかり,妊娠八ヵ月の頃から入院して私は無事第二子を出産することができました。龍太郎と対面したときの気持ちは,言葉にも文字にも言いあらわすことができません。生きてくれていただけでうれしい,いのちがあることだけでうれしかったのです。龍太郎を通して純子と私とのかかわりをみつめかえす大きな機会も与えられました。純子と龍太郎,この二つのいのちはかけがえのない宝物であり,だからいまの私があるのだと思います。


母と子のふれあい
 療育センターに通うようになって以来,私と純子との生活は訓練の繰り返しのようなものでした。しかし,龍太郎との間には何の課題もなく,自然に楽しさを共有することができたのです。二人のわが子への自分の接し方のちがいがずいぶん気になりました。たとえばブランコでも純子にはただ乗せているだけではだめだとセンターの先生に注意され,「10」数えては「10」で止めて,毎回「もう一回」という気持ちを引き出させることを大切にするのです。でも,課題の設定以前にもっと母と子のあたたかさ,安心感,こころのふれあいがあってもいいのではないか,母親というのはそんな存在でいいのではないかと思うようになりました。


 そしてわが家だけ地域の中からポツンと宙に浮いたようなさびしさも感じていた私は,一つの決断をしました。汽車ポッポ(足こぎ車で,動くとポーと音が出る)という乗り物を買ってやり,毎日センターから帰ると外にあそびに出たのです。ところが,「夕方,気持ちの悪い子が気持ちの悪いポーとなる汽車に乗って,気持ちが悪い」という近所からの苦情。かなり決心して外に出たのでショックでしたが,ここでやめたらほんとうに私と純子だけの生活になってしまうと思いました。私は近所を一軒一軒訪ねて「遠い訓練所に通っているので夕方しかあそぶ時間がないのです」とお願いしました。

 ある時,純子がカゼをひいてそれまで一日も欠かさなかった汽車ポッポをお休みした日がありました。すると翌朝,近所の方に声をかけられたんです。「純ちゃん,昨日は汽車ポッポしなかったんだね。今まで純ちゃんに励まされて,さあ私も夕食を作ろうと時計代わりになっていたことに昨日気がついたの」。その一言は私の心に重たくズシンと響きました。うれしかったし,この子と生きていけると思いましたよ。

友だちをもとめて
 その頃から近所の子どもたちも寄ってきて話しかけたり,あそんでくれるようになったとのこと。汽車ポッポの楽しさはそんな子どもたちとの交わりのなかで広がっていったのです。

 乗せてもじっとしている純子に対して,私がかかわると「右足だして,左足だして・・・」と訓練的になってしまいました。でも子どもたちはちがいます。「新幹線ひかり号」といってビューンと押してしまうのです。その時純子はこわがるどころか,にこにこ笑ってそれまで持ったことのない把手をしっかり握りしめているのです。子どもは子ども同士のなかで育ちあっていくものだということを実感しました。

 それでまた勇気がわいてきて毎日近くの公園に出かけるようになりました。公園でいっしょに砂あそびをしようとしても純子は全然振り向いてくれません。他のお母さんに反応のない純子をみられるのがいやでしたが,とにかくがんばって毎日でかけました。そのうち,純子が自分から手をついて立ち上がろうとするようになったのです。立ち上がるのに二分ほどかかってとてもたいへんなことで,意志がないとできません。「何をしようとしているんだろう?」と私は思いました。その日はそれだけで終わったのですが,次の日も次の日も立ち上がるんです。そして一歩二歩と歩きだし,歩数がふえて野球をしている子のところに向かっているのがわかりました。ボールを持っている子に純子は興味をしめしたのです。子どもたちは純子が近寄るたびにボールを差し出してくれました。その手に,ある日純子は手を出したんです。子ども同士はわかっているんですね。それに純子がすぐに反応しなくても,子どもはむなしくなっていないんですよ。私の場合はむなしくなるし,一人でがんばっていたのだなと思いました。気持ちがからだを動かすということ,こころがふれあうということを純子たちから学んだ気がします。

ふつうの生活をもとめて
 その頃小学校は養護学校しか行けないだろうと思っていたので,せめて一生に一年だけ普通の子といっしょに普通の生活をさせてやりたい,自分がしたいことのために時間を費やせることのできる場を与えてやりたいと思いました。意を決して近所の幼稚園や保育園をあたってみました。でも,もののみごとに全部断られたのです。「一人で○○できますか?」と次つぎに聞かれました。やはり厚坂純子という一人の子どもがいるというふうには,世の中は受けとめてくれないのです。厚坂純子の場合は「障害」児なんですよ。そういう現実をまざまざと見せつけられました。だから療育センターというところがあるんだと思いました。それ以前から療育センターってなんぞやと感じていましたが,意図的にシステムとして構築されていったのは,社会にそういう目があるから小さい頃からがんばらせないと結局は本人がこまるんですよといった,社会の目は変えずに障害者だけを変えていくという考え方がベースになっているんですよね。言い知れぬ怒りを感じましたが,とりあえず一生に一年くらいどこかあるだろうと必死で探しました。するとあったのです。一か所だけ。家からは遠い無認可保育所です。そこに行ったら純子はニコニコしているんですよ。「今日は散歩に行きます」と聞いて,飛び跳ねるようにして行くんです。満面の笑みで,友だちと手をつないでね。それまで純子は友だちと手をつないだことがなかったのです。こんなささいなことでこんなに笑顔がでる純子を見て「あー,これだ」と思いました。障害があるとかないとかではなくて,こうやって人間って生きていくのではないでしょうか。「純ちゃん,だめ」って友だちに言われてしょぼんとしたりすることもあたりまえのことでしょ。それがなかったのが変だなと,純子の障害より社会の中にある障害に目を向けるようになりました。


「みんないっしょ」に「みんな同じ」でない社会を

 二人の子どものいのちとむきあい,ともに歩くなかで,「療育って何?」「教育って何?」「人が生きていくってどんなこと?」ということを厚坂さんはずっと考えてこられました。そして,「障害」があろうがなかろうが,そんなこと全然問題ではないと明言されます。そんな思いのなかで六年前につくられたのが,『ともいくクラブ』です。

 「障害」児・者の親は私も含めて卑屈になりがちなのです。学校の話一つをとっても,障害児だけがたいへんなわけではなく,普通といわれている子たちも自分らしさを尊重されずに苦しんでいるのです。保育所での仲間などさまざまな人とつながるなかで障害者だけのことを考えるのではなく,もっと幅広く考えられる人間に私自身がなりたいと願い,また障害児のことも考えてほしいという思いのなかで当事者だけで集まるのでない誰でも入れる会をつくろうと思ったんです。とりあえず私はもっとも身近な「障害」者問題にテーマをおいていますが,誰もが地域の中で豊かに生きていくために地域社会を自分たちでつくりましょうということに賛同する人はどんどん参加してくださいと呼びかけています。

 現在,四十人くらいの仲間が集まっていて,このクラブ自体は大人の集団だそうです。キャンプなどには子どもも参加しますが,誰もが主体になって活動されるとのこと。してもらう−してあげるという一方通行の関係ではなく,みんなで<ともに活動する>ことが人をして解放せしめる糸口なのでしょう。「障害」児をもつ子の親には特に心の解放を−自分らしさを,普通の生活をとりもどしてもらいたいと厚坂さんは願っておられます。


 ともいくクラブにはいろんな人がいていろんな考えが飛び交うそうです。みんな同じ考
えで「うん,そうよね」とおわらないところが魅力なのでしょう。「ともいくクラブ」の話になると厚坂さんの目は輝きだしました。

 違いを排除するのでなく違いを大切にすることで,逆に自分自身を見つめ直し,自分らしさを発見できるのです。だから「ともいく」は個性派ぞろいでみんないきいきしていて,どうしてこんなに元気集団なのかとよくいわれます。まさに一人ひとりが尊重され,「ともに生きる」を実体験してゆく場になっていて,それは,みんなで培ってきた大切な「ともいく」らしさだと自負しています。

 「ともいく」のメンバー一人ひとりが,さらに自分の地域で種をまき,大切に育てて,自分も子どもも,そして老人も若者も「みんないっしょに」「みんな同じでない」そんな地域社会を創る担い手となって巣立っていってくれることを願っています。

 わかりあえないから知りたい,同じでないから興味がある−−そのように人が人を求め,繋がろうとする輪が,現在もっともつらい思いのなかで春にむかって生きようとされている厚坂さん親子を支える大きな力になることと私は信じています。

 六年前にともいくクラブをつくることができ,今日までつづけてこられたのは,純子を通して,そして仲間を通して「人が人間になれるのは人と人との間があるからだ」と教えてもらえたからです。人間であり続ける限り,人は一人ではないと確信しています。

 厚坂さんはこのように振り返っておられました。ともいくクラブに集う大人たちが解放されるということはともに集う純子ちゃんたち子どもの未来を支え,はげます仲間の基盤づくりの歩みにほかならないでしょう。『子どもに学び,子どもにかえす』という子育ての原点をみる思いでした。

 この時期,私もまた通園児の親たちと子どもが生き生きと生活できる幼稚園や保育所を求め,模索している最中です。今回厚坂さんとの再会を通して<いのちとふれあう>ということの深さやよろこびを感じとることができました。そして三年前と同じ課題を再度与えられた気がします。「どの子もあるがままに生きることを認めてもらい,生き生きとくらす場を持ち得ているだろうか,そのためにはどうすればいいのだろうか」ということです。地域に根ざして生きていく場を開拓していけるような具体的な環境づくりやアプローチが公的機関や療育機関にこそ求められているのでしょう。目の前の子どもたちを通して,そして今まで出会ってきた多くの子どもたちの生きている現実を見据えるなかで自らの生き方を重ねつつ,歩みつづけるこころを厚坂さんから私はおみやげとして手渡されたのです。


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