子どもと生きる

〜いのちをわかちあうくらしを訪ねて〜

(ミネルヴァ書房「発達」74号,1998:春 連載第13回)



 パンダ園は「心臓病の子供を守る京都父母の会」が主催している共同保育所です。重症児のための集団生活の場として22年前から取り組まれています。開設当時は市の援助もなく,心身障害児福祉協会の一室を借りての週1回の保育でしたが,現在では京都葵教会の協力の下,教会の一角で週2回の保育が行われています。心臓病の子どもだけでなく,地域を中心に誰でも親子で集うことのできる保育所として,地域に根づいた活動を展開されています。また,ともに育ち合う場としてたくさんの通園児・卒園児の親や地域の人たちがボランティアとして参加し,保育場面や給食でパンダ園をささえておられます。
                  所在地:京都市左京区下鴨下川原町31-2 京都葵教会内
                   電話:075-781-1208


<絵本『かみさまのおてつだい』と出会って>

 5年前の春のことです。私のもとに1冊の絵本が届けられました。『かみさまのおてつだい−ぼくびょうきでいいんだね』(同朋舎),絵本好きな私に姉がプレゼントしてくれたものです。著者である佐原良子さんの次男・契児くんは5歳前に心臓病で亡くなられました。その経験から得た思いを佐原さんは絵本にされたのです。そして契児くんがなくなられてから,「心臓病の子供を守る京都父母の会」の共同保育所である「パンダ園」の保母として仕事をされています。

 それ以来,いつかパンダ園を訪れ,元気な佐原さんに出会ってみたいという思いが心の片隅にありました。


<佐原さんをたずねて>−−仮住まいでの保育

 今回の連載では,「病児がいきいきとくらしている場」をテーマにしました。その時最初に思い浮かんだのが「パンダ園」であり,佐原良子さんだったのです。

 取材をお願いした頃,ちょうどパンダ園は改装工事中で他の施設を利用して保育をされていました。それでも快諾していただき,私は京都市障害者スポーツセンターのプレイルームでの集いに参加する機会を得ました。


  ●おとなも子どもも楽しみのなかで

 工事が終わる3月までは,西陣市民センターと京都市障害者スポーツセンターの2カ所を借りて週に2回保育をされているとのこと。寒い時期でもあり,入院している子どももいて,この日は10人に満たない子どもたちの参加でしたが,元気にプレイルームを駆け回り,あそんでいました。佐原さんから「なかには,いつ心臓停止が起こるか心配な子どももいるんですよ」と聞かされましたが,「どの子が?」とわからない雰囲気なのです。きっとそれがいいのでしょう。そしてそれがパンダ園らしさのように思えました。なぜならここは心臓病の子どもだけでなく,そのきょうだいも,地域の子どもも,さまざまな子どもたちが集う場なのです。「パンダ園であそびたいという子どもはだれでも,パンダ園ですごしたいという大人もだれでもさんかできるんですよ」と佐原さんは話されました。

 保護者の方たちは,部屋の一角に集まられて話し合いをされていました。本来なら保育中は給食の調理を担当され,みんなでにぎやかに厨房で活動されているとのことですが,スポーツセンターではお弁当持参なので,食についての勉強会をされていたのです。この日は『塩』について,とても熱心に討議されている様子でした。保護者とボランティアによるパンダ園の給食は長年の積み重ねがあり,独自の伝統的メニューが増えているそうです。卒園文集には「パンダ園の食卓から」や「パンダ園好評料理」として紹介されているくらいです。おいしく,安全に,手軽に,安く,栄養満点,それに保護者間の交流,気分転換...と,この活動は大切に引き継がれています。給食ボランティアは地域の方や卒園生の保護者とのこと。食を通して心をつないでいくあたたかさが伝わってくるように感じられました。


●保育を支える人たち

 佐原さん以外のスタッフはボランティアの方も含めて4人。とても手厚い体制です。保護者とはほとんど分離のかたちですすめられています。それぞれが自分の持ち味を生かして子どもたちと接しておられるのを感じました。そこにはプロとしての視点があり,子どもと寄り添う仲間としての姿勢があり,すばらしい保育を展開されていました。そして私のなかには,もうひとつなにか心に深く入っていくあたたかいものが感じられたのです。その源がなにかすぐにわかりませんでした。そこで佐原さんにスタッフの方たちについて少したずねてみました。佐原さんはまず自分のことから話されました。

 私は次男が亡くなって,かけがえのない生命をとおしてその子が私に与えてくれた生き方は何だろう? と模索していた時,息子と一緒に参加したことのあったパンダ園のお手伝いを思いつきました。夫が牧師をしていることから,教会の一角をお借りしてパンダ園の保育ができればと思ったのです。はじめは心臓手術で子どもを亡くした私が保母として関わると,お母さんたちは思い気持ちを抱えることにならないかと躊躇しました。でも,亡くなった子どもも生かされる道がそこにあることを信じて一歩一歩踏み出していったのです。

 他にも子どもを心臓病で亡くされた保母さんがいます。矢野さんの子どもさんは,発作による心停止の後遺症で脳に障害が残り,歩くこともお話することもできなくなってしまいました。退院後パンダ園に通園していたのですが,手術を受け,半年間のICUでの手当のかいなく亡くなられました。その後しばらくして「承太が喜び,暖かく見守って下さっていたパンダ園に,つい足が向くんですよ」と子どもたちの遊び相手してくださっているうちに保母の資格を取ってパンダ園の親子を力づけて下さっています。千田さんは子どもさんを亡くされた後,見学に来られました。「やさしいあたたかい仲間に加えてもらってよかった。病気があってもすてきな笑顔を見せてくれる子どもたちや辛い思いを乗り越えてがんばっておられるお母さん,長年ボランティアで関わっておられる方々と知り合って,いろいろと教わることができ,私自身のためにパンダ園に来させてもらっているみたい」と喜んでおられます。私もパンダ園にいると,子どもたちやまわりの人たちの豊かさがあふれるような雰囲気に癒されるような気がします。


 佐原さんの話を聞いて,私はパンダ園の保育の源流にあるあたたかさの中身を心で受けとめることができました。そのとき,ふとずいぶん昔の頃のことを思い出しました。思春期の悩み多い時期に私が礎としていたことばのひとつが浮かんできたのです。「悲しみやつらさを越えるたびに人はやさしくなれる。」人生のなかでの悲しい出来事やつらい経験も時間の経過とともに「よかった」と感じられ,現在進行形の自分のなかに生かしていこうとするプラス思考は,この時期に私のなかに取り入れたように思います。光かがやく時期と同じくらいどん底の日々も人のいのちの深さを感じる大切な一こまであると改めて実感しました。


<かけがえのないいのちをみつめて>−インタビューより−

●保育を支える人たち

 佐原さんがパンダ園で保母をされるようになってから20年の歳月が流れています。出会いの時を振り返り,今日までの歩みのなかでめざしてこられたことや,折々のエピソードを聴いてみました。

 独身時代は故郷の松山市で7年間幼稚園に勤めていました。結婚してからは保母はしていませんでした。現在住んでいる京都葵教会に移ってからは,いつも洗濯物を干しながら「この教会はこんなに広い庭があってすてきな建物があるのにもったいないなあ」と思っていたんです。

 それで子どもが亡くなったときにパンダ園をここに移して活動させていただけないかと,教会の人たちに相談し,協力をお願いしました。以前はポッポ教室(知的「障害」児母子通園施設)の1室を週1回午後に借りて保育されていたのですが,午後の保育というのは子どもにはかなり負担になったみたいで,それ以後は教会で,私たちが全面的にお手伝いすることになりました。すると,地域の人たちが子どもを連れて来られるようになったのです。元気な子どもと一緒に交わることはお互いにいいことですね。病児もなるべく早くそれそれの地域の人たちのなかに返して上げたいのですね。症状の軽い子は地域の子どもたちと一緒に幼稚園や保育所に行って,仲間をつくってそのまま小学校にあがってほしいと思っています。ここはそのステップとして,友だちとの生活に慣れたり,お母さんたちもそれぞれの子どもの良いところに気づき,お互いに育ち合う場にしてもらえればと願っています。

●お母さんにとってのパンダ園

 私の子どもも3回手術をしましたし,長い入院生活のなかではたいへんな思いもしました。病児のお母さんは誰もたいへんな思いをしているのです。パンダ園に集うお母さんはさまざまな経験や交流を経て「うちの子どもも幸せになれるんですね」と私たちと思いを重ねてくださるようになります。それまでお母さんたちは,自分がこんな子どもに産んでしまったから申し訳ない。子どもがつらい作業をするたびに自分をせめておられました。でも,パンダ園に来られたお母さんたちがだんだん明るい表情を見せて下さるようになるのは,きっと子どもたちの輝き,病児に授かった”生かされる意味”を発見してくださるからだと思います。20年間私がお母さんたちに語りつづけていることは,「病気の子どもをもらったことに対して,親であるあなたが大事なかけがえのない子どもをもらったと思うときに,その子どもは輝いてお仕事をしますよ。あなたがそれをかわいそうだ,申し訳ないと思ってしまうと,子どもは小さくなるばかりですよ。けれどもその子がほんとうにすてきだと思ってみてごらんなさい。そうしたらその子のなかに与えられた使命というものが感じられ,病児の生かされる道って何かな,ということを考えられるようになってきますよ」ということです。

 卒園文集を読むと,お母さんたちがパンダ園に来て元気になった,考え方が変わってきたということがとても伝わってきてうれしくなります。

 佐原さんから私は3冊の文集をいただきました。そこにはパンダ園の宝物がいっぱいつまっています。お母さんにとってのパンダ園の存在の大きさが伝わってくるのです。


<佐原さんと絵本づくり>

 佐原さんが最初に絵本を描きたいと思われた頃には,パンダ園で出会った子どもたちのうち15人ほどが心臓の手術ですでに亡くなっていました。通っている頃はどの子もいきいきしていました。でも,手術時に亡くなることが多かったのです。手術までに「あなたのいのちはすてきないのちなんだ」ということを子どもたちに伝えたい,そんな思いを佐原さんは絵本に託されました。


●処女作が生まれるまで

 1988年に同志社大学で,あるスイス人の講演を聴きました。その人はドイツで病児のために本を書いておられたのです。「日本には病気の子どもがベッドの傍らで読む本がない」と,話されました。パンダ園の子どもたちが次々に亡くなっていくなかで,入院する子どもたちにあたたかいものを注ぎたい,何かお手伝いできればいいなと思っていた矢先にその話を聴いたので,私は絶対に絵本をつくりたいと思いました。

 それから,私はクリスチャンなので毎日聖書を読んで祈り続けました。「神さま,どうか病気の子どもが元気になれる本をください」と祈りながら,文章を書いていったのです。契児(息子)は入院中,「帰りたい,帰りたい」と言い続けていました。「なんでぼくだけ注射せんといけないんや」とも。週に2回の採血なんですが,30分くらいかかるのです。しんどい思いをするたびに「なんでぼくが...」ということばがでてくるのです。私はそのたびに聖書を読んで聞かせました。すると,契児は次第に「ぼくは病気でいいんだね」と感じるようになってきて,病院のなかで生きる元気を与えられてきたのです。子どもには「あなたのいのちはすてきだよ」と言うこと,お母さんには「あなたの子どもはすてきなんだよ」と言っていくことが大切なのです。そのことを教えてくれたのは契児でした。彼はその頃術後の容体が悪く植物状態でしたが,亡くなるまでの間,私は多くの人たちに支えられ,彼から最も大切なことを学ぶことができました。告知を受け,悲しみのどん底のなかで感じ得たことは「この子にはこの子の価値があり,たとえ病児や短命であっても,神さまの愛がある」ということです。その時から私は元気がでてきました。病院のなかで苦しんでいる人たちの思いに自分の思いを重ねていきたいと願いました。「あなたの子どもはもう回復の見通しがない」と言われたときに,はじめてまわりの人たちのしんどさがわかるようになったのです。病院のなかで今私にできる仕事はなんだろうと考え,掃除や洗濯のお手伝いなどを始めました。他の人たちの辛い思いも私のなかに蓄えさせてもらいました。そのようなことが今の私のなかに活きているのだと思います。そのように活きることに意味があるということを子どもやお母さんが感じてくれたらいいなあと思って,絵本づくりをすすめていきました。



●南から北へ 虹を織る

 初めて手描きの絵本を贈ったのは,知人の子どもさんが手術をするときでした。そのお母さんからは「今までわが子をかわいそうとしか思わなかったが,まわりのみんなをはげますためにわが子がいるんだと思うとあたたかい思いになった。元気になりました」と言う手紙をもらったのです。ある3歳の心臓病の子どもをもつお母さんは近所にも病気のことを隠されていました。いじめられたり,差別されたりするのを恐れておられたのです。でも手術のときは本人に手術のことを言うべきかすごく悩んでおられたんですよ。それでコピーした絵本を渡し,「色をぬったりしながら子どもさんに話をしてあげては?」と言いました。ICUの部屋のなかで目をさますと子どもはパニックになるんですよ。だから手術のことや病気のことをちゃんと話しておくことが大切だと思います。術後,この子はICUで目覚めたとき,お母さんに「ぼくもがんばった」と伝えました。恐怖心のあるなかでも「ああ,手術が終わったんだな」という気持ちが心の片隅にあれば,「ぼくはこんなにがんばったんだ」という自信が生まれてくると思います。その子に励まされて私はきちんとした絵本にする決意ができました。そして全国の病院の小児科病棟に絵本を贈りたいと思ったのです。私の企画に賛同してくれた人たちとともに「虹を織る会」というボランティアの会を作りました。7冊の絵本が売れるとその収益で1冊の絵本を贈ることができるシステムで,私たちは1000冊ほどの絵本を沖縄から北海道に向けて贈ることができたのです。

 私は1人の若い友人のことを思いながら佐原さんの話を聞いていました。彼女にも重い心臓病の子どもがいたのです。その子は2年半前に1歳2カ月で亡くなりました。生後1週間目に病気が発見され,その後長い母子入院の日々が続いたのです。初めてお見舞いに行ったとき,私は不思議な思いとある種の感動をおぼえました。疲れているだろうと心配していた友人がとても元気だったのです。保母としていっしょに仕事をしているときも彼女ははつらつとしていました。その元気さにプラスして母親としての風格が備わっていたのです。彼女がベッドの赤ちゃんに元気よく声をかけ,大胆にあやしていたのがとても印象的でした。痛々しく病児にかかわるのではなく,ごく自然にあたりまえに堂々と病院で子育てをしていたのです。そして同室の子どもさんのことや入院中に亡くなっていく子どもさんのことを深く受けとめている姿がありました。その子が退院してからは,いまあるいのちを大切にしたいと家族で楽しくすごす日々を重ねていたのですが,夏の終わりに風邪をこじらせ,一時入院することになったのです。退院間近に容態が急変してその子はなくなりました。その夜,友人は一晩中子どもに楽しかったことや自分の思いを語り続け,告別式の日は堂々と挨拶をしました。「1歳2カ月の短いいのちだったけれど娘は精一杯生き,家族はみんな彼女をこの上なく愛しました。娘は家族によろこびと大切なものをいっぱい与えてくれました。娘のおかげで家族はひとつになって協力できたし,いのちの大切さを学びました。1年2カ月豊かに生きた娘の最後の顔を見てやってください」。私は友人のなかに娘Nちゃんのいのちを感じました。あの元気さは愛娘からの贈り物なのでしょう。


●病児からのメッセージ −絵本『うれしいときってどんなとき』

 佐原さんは対談中何度か同じことばを口にされました。それは「病気の子どもが仕事をしている」ということばです。

 病児がいるから,その子によってまわりのみんなは励まされているのです。パンダ園の子どもたちのなかですごしていると「病児が生きる元気や喜びを作り出している」ということを実感します。私は病児がすてきな仕事に選ばれていることを伝えたくて『うれしいときってどんなとき−−うさこちゃんのにゅういん』(同朋舎)を描きました。この絵本のなかにでてくるくまさんは,現在養護学校に通っている卒園児の男の子にそっくりなんですよ。その子は動けない重症の子なんですが,生きるメッセージというのを私に一番贈ってくれているんです。ほんとうにいい顔をするんですよ。私のなかでとてもいいお仕事をしてくれています。だから自然とくまさんの顔に似てしまったのでしょう。


<夢を絵本に託して>

 佐原さんが3冊目にだされた絵本は『お花ばあちゃんの一日』(同朋舎)という一人暮らしのお年寄りの1日を描かれたものです。社会のなかで弱者といわれる人たちに焦点をあて,大切にしたいという思いが自然に伝わってきます。そんな佐原さんが「私にはもう1冊だけ描きたい絵本があるんです」と,言われました。

 それは,息子が生前に入院先でお世話になった主治医の先生との約束事なのです。その先生は『かみさまのお手伝い』が出版されたときもよろこんでくださり,講演先で絵本を配るなどの応援もしてくださいました。約束事というのは,先生から「告知の本を描いてほしい」と言われたことです。告知をする前に「君のいのちはすてきなんだ」ということを子どもに伝えたいというのがその先生の思いです。手術をしなければならない子はいのちをつなぐためにどうしても手術をしなければならないのですが,軽い場合は経過をみていきましょうということになります。そんな子どもたちをみていると,成長とともに反抗したり,病院へも来なくなったりすることがあるそうです。小さいうちに,せめて小学生の間に「君のいのちは大切なんだよ。そのために病院とのつながりをしっかりとつくって守っていこうな」というきっかけを本に求められています。そのような話の大切さは告知を経験した私には身にしみて感じられます。いま,文章はできあがりつつあります。この本だけは仕上げたいと思っているのです。

 アプローチの仕方はさまざまですが,私も10年以上前から手作り絵本に取り組んでいます。絵本をくらしのなかで,ひとりひとりを大切にする思いのなかで,生かそうという共通項をここにも見いだすことができました。私は現在の通園施設に異動したとき,最初に考えついた手作り絵本のことを思い出しました。それは佐原さんと共通する告知の絵本なのです。告知と言っても本人ではなく,兄姉にむけての本です。妹や弟に同行してくる兄姉に施設のことを紹介し,なぜ弟妹がここにきているのかを絵本で紹介するなかで,人はみなちがってあたりまえということやかけがえのないいのちがいかに大切かということに出会ってほしいと考えました。しかし,いまなお完成していないのです。佐原さんのエネルギーとうちの園に今年度通園されているある保護者の思いに共感し,据え置きにしていた課題に再び取り組んでみたいという思いが湧いてきました。その子どもは悪性リンパ腫のため秋までは入院先から通園していました。保護者学習会の手作り絵本実習でその方は子どものために写真絵本を作られたのです。それは入院から退院までの闘病生活を克明に写真とことばで綴ったものです。「子どもが大きくなったら,たいへんだったけれどみんなに支えてもらい,みんなを支えながらこんなにがんばったんだよ」と言って見せて上げたいと語っておられました。長年の宿題を完成すべく春とともに歩き出しなさいよと私は肩をたたかれました。


<たんぽぽのわたぼうしのごとく......>

 春を間近に親も子もうーんと背伸びをする時期。パンダ園では3月21日が卒園式です。新しい建物での親や子どもたちの姿に思いを馳せながら,佐原さんはこんな話をされました。

 お母さんとの話し合いの場で1人のお母さんが「パンダ園にきて,ほんとうによかったよね。私みたいな人間もちょっとはよく思えるようになった」と言われていました。つらい思いのただなかにいる友だちのことを思うとき,自分たちのことも振り返ったりされるのです。そして,卒園されてからも地域のなかで何らかのかたちでボランティア活動に参加されたり,他の人と友だちになったりされるんですよ。また,子どもが亡くなっても,その子のいのちを自分のなかに活かして元気に歩いていけると信じています。

 パンダ園の子どもも大人もみんな元気いっぱいです。そして世間一般で使われている<元気>ということばの意味を高らかに覆しています。昔,保育目標に掲げた「健康な子ども」像について何度も討議したことを思い出します。また,私はパンダ園で共同保育所の「共同」ということばに支えられている大切なものを学ぶことができました。ささやかであっても確かな人と人とのつながりのなかで営むくらしの豊かさがパンダ園を支えているのでしょう。


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