子どもと生きる

〜いのちをわかちあうくらしを訪ねて〜

(ミネルヴァ書房「発達」78号,1999:春,最終回)



 社団法人子ども情報研究センターは,子どもの人権に関わる活動をしている民間の非営利団体です。子どもの権利擁護,子どもが一個の人格として社会参加できる条件づくりなど,子どもとおとなのパートナーシップ社会を求め,さまさまな活動が行われています。月刊誌や子ども政策の動向を伝える情報誌(季刊),「研究妃要」(年刊)の発行。子育てブックレットの出版。会員運営による自主セミナー。各種公開講座や研修などの企画,開催。地域子育て支援ネットワーク事業(「子育てなんでも相談」など)。また,ティーンズ関連事業では,子ども発のメッセージを発信したり,ティーンズ・ホットライン電話番組「ユア・ボイス」の制作など子どもによる子どものための活動のサポートを行っています。誰でも会員になれます。会費と出版物の売り上げ,カンパによって運営され,会員のボランティア活動によって支えられているのです。

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<旅のおわりに>

 4年前に始まった「いのちをわかちあうくらしを訪ねて」−−自分さがしの旅−−は,今回で帰路に着くことになりました。子どもと生きるおとなを通して,さまざまな子どもたちやそのくらしぶりに出会うことができました。それは,一方で<私>から出発し,<私>に帰る心の旅路でもあったのです。

 最終回は1人の友人を紹介し,彼女との対談を通して,保母として子どもと生きてきた自らの歩みを振り返り,未来に思いをつないでみたいと思います。私には,20年近く,私とはちがう立場で子どもを見つめつつ,ともに歩いてきた友人がいます。私たちにはいくつかの共通のキーワードがあります。そこに焦点をあて,互いに自らを語り合いました。次の世代に私たちが大切と思うものをつないでいけることを願って・・・。

●田中さんのこと

 長年つきあっていて,対談でもないだろうと言いつつも快く長時間つきあってくれたのは,田中文子さん。彼女は大阪に事務局がある「子ども情報研究センター」の事務局長で,設立当初からのスタッフです。当時は「乳幼児発達研究所」という名称でした。研究所主催の保育集会に私がはじめて参加したのが田中さんとの出会いでした。以来私は毎月研究所の研究部会に参加するようになり,20年近くの大阪通いが始まりました。

 彼女は毎回夜遅くまでいっしよに研究部会に参加してくれました。保母や教師,研究者,親,さまざまな人たちの集まりだったのですが,私にとっては立場を越えて話しあい,学びあえる貴重な場でした。そのなかでも彼女の存在や発言はとても魅力あるものでした。直接子どもとかかわる仕事ではないのですが,子どもとかかわるおとなたちとのつながりや子どもとのくらしを考えていく彼女の姿勢のなかに深い洞察力や鋭い感性が感じられました。今回は,対談を通してまた違った角度から彼女を新たに知ることができたのです。

<わたし,そして子ども>−−対談よ

●子どもとの出会い

田中:
 子どもに関する仕事を20何年やってきて,しかも子どもの人権なんてことを言ってるでしよ。だから私はよほど子どもが好きで,子どものことに関心があると人から思われますが,それはちょっとちがう。私は子どもにあまり関心がないというか,どっちかというと子どもにかかわっているおとなに関心があるの。

 研究部会に参加される,保母さんとか学校の先生とかの熱心さにいつも感服していました。手弁当で,仕事が終わってから遠い所を集まってくる。自分の意志で実践を持ち寄ってきて,時間も気にせずー所懸命議論をされているでしよ。私はひとり現場を持たずに参加しているんだけれど,圧倒されるというか,何でそんなにー所懸命子どものことを考えられるんだろう,何でそんなに子どものことでー所懸命になれるんだろう。すごいなあって不思議だった。

 私自身は,大学の4回生の終わり頃親になりました。つわりがひどくて,就職活動もできなかった。だから,自分の人生のなかで,仕事をもって社会参加していこうとしたときに,子どもが<足かせ>のように現れてきて,この子がいるからつわりでしんどい,卒論もうまく進まないし,就職もうまくできないという感じでした。当時の私の実感としては,子どもは私の対立物というか,すんなりと受け入れられなかった。こんな未熟な出会い方だったけれど,子どもたちに育てられてきたなあ,とつくづく思います。子どもの方はどう思ってるんだろう。

久賀谷:
 おだやかな内申さんが子どもと対立意識をもっていたなんて思いもしませんでした(笑)。

 私の場合は,自分が子どものときからずっと子どもを意識していたし,子ども,このときは自分より小さい子ということなんだけど,大好きだった。いま思うと地域のなかでの子育て,子育ちをいち早く経験していたのです。うちは商売をしていて家で遊んだり勉強したりの環境がありませんでした。そこで小学校のあいだは放課後「子どもの家」という所ですごしていました。近所のおじさんが自宅を開放され(児童厚生施設として)運営されていたのです。放課後に1年生から6年生までが混じりあって勉強したり,遊んだりするのです。夏にはキャンプもありました。そこには子ども同士のつながりがあったし,おじさんやおばさんか家族ぐるみで地域の子どもたちの面倒をみるといったおとなとのあたたかい交流がありました。このような子ども時代の交わりが,私をして『子ども大好き』と言わしめるべ−スになっているような気がします。後に,私が大学1回生のとき,「こどもの家」は学童保育所として再出発しました。まだ入学したばかりでしたが,私も正指導員として登録され,週3日働くようになったのです。福祉を学ぷ学生として現場をもつことは,特に当時は大学紛争の真っ只中で授業なんてほとんどなかったし,ボランティア活動とあわせてとても貴重なことでした。福祉そのものの社会的位置づけ,その矛盾や問題も同時に抱えこむことになるのですが・・・。さまざまな葛藤のなか,在学中に保母資格を取得し,その後すぐに公立保育所に勤務するようになりました。

 人生を歩いてきたのは自分なんだけど,ふと振り返ると予測しなかったような道を歩いていたりして,改めて我を見つめるってことがありますよね。田中さんの場合は就職しようと思っていたのに大学院に進んだり,私の場合は大学院まで進もうと入学したのに,途中で福祉現場に飛び込んでいったりと・・・。人生ってドラマティックですね。

田中:
 そうですね。私が久賀谷さんに出会うことができたのもたまたま大学院に行ったからですものね。そしてその大学院で出会ったのが鈴木祥蔵先生で,あまり前向きになれない大学院生活の中で,鈴木先生のワロンの授業は私にとって“目からウロコ”でした。アンリ・ワロンはフランスの精神科医であり,心理学者ですね。ワロンが説く心理学に深い人生観,哲学のようなものを感じたのです。あまりにも細分化されて合理的に分析的に人の心を解読しようとする心理学になじめなかった私は,ワロンの,不明な部分は不明として,矛盾は矛盾として生身の人間とまるごとつきあおうとする姿勢に共感して。情動や感情を大切に扱っているところも好きだったな。

 鈴木先生が「乳幼児発達研究所」の設立を考えられていることを知って,私もぜひ参加したいと思いました。いま思うと「乳幼児発達研究所」の講師陣はみんなワロンとの出会いでつなかっているようなものですね。

久賀谷:

 そう,そう。私もはじめてワロンと出会ったのは鈴木先生からです。民間園ではなく,公立でしかも「同和」保育所が保母としての出発点だったから,鈴木先生はじめ師と呼べるすばらしい人たちに出会え,「乳幼児発達研究所」を軸とする研究の場を与えられた気がします。保母になって間もないころ,大阪の「同和」保育研究集会の場で玲木先生からワロンの〈融即)の関係について話を聴いたのが最初でした。同時にワロンについては『発達』の創刊号以来連載されていた浜田寿美男氏の翻訳文献などから多くを学びました。それまで子どもをまず個体として捉えるピアジェ志向が強かったのですが,ワロンと出会うことによって人や物との関係の中で子どもを捉えようとする関係論的視点をもつことを教えられました。お互い,ワロンの深さと難解さは今なお感じ続けていますよね。それも魅力かな。

 また,私にとって鈴木先生は「同和」保育理論を学んだかけがえのない存在でもあります。後に解放保育→人権保育と実践のなかで位置づけていけたのも鈴木先生から学んだ「同和」保育が原点にあったからだと思います。

 研究会のメンバーはそれぞれ個性豊かで,議論も絶えなかったけれど,自分の生き方ぐるみで子どもとかかわろうとしていたおとな集団のような気がしますね。子どもへの評価は同時に自らへの評価であり,子どもを評価する私たち自身の目が問われることになるんですものね。

田中:
 私も子どもを抱えて自分の進路を探していたとき,鈴木先生と出会ったことが大きかった。当時,「同和」保育運動が高まりつつあって,鈴木先生はその理論的整理に心血を注いでおられました。私が鈴木先生の「同和」保育理論から学んだことは,すべての人の可能性への信頼と個々の子どもの成長課題を個人の枠の中で捉えるのではなく,環境条件など社会的視野から捉えていく視点です。「保育」「教育」は保育所や教室などの囲いの中に納まらない,私たちの生き方を問うものなんだなって。だから,「子ども情報研究センター」は立場を超えて,個人として,私として,意見交換できる場でありたいと考えてきました。


 最近観た映画のなかに「スライディング・ドア」というのがありましたが,人は人生のなかで,ときに「もし,あのとき〜していたら,また別の人生を歩いていたかもしれない・・・」と想像することがあります。しかし,人生は一度きりです。多くの出会いのなかでかけがえのないと感じる一握りの出会いはその人の感性のなかで受けとめ,相互作用のなかで関係づけられていきます。私は少女時代のころから偶然と偶然が重なると『必然』になると人との出会いを位置づけていました。ところが私が出会ったある人は「偶然と偶然が重なったら,『自然』になると思いたい」と語るのです。このことばからは人との出会いをまず心で受けとめようとする思いが伝わってきました。そう感しるとなぜか人との出会いが軽やかに楽になるような気がしてきます。誰もがそのような出会い方をすれば,立場がちがっても,おとなも子どもも対等に語りあえ,尊重しあい,学びあえるのではないでしょうか。人を好きになるというキーワードがそこに隠されているように思います。

●共同子育てのなかでみえてきたもの

 保育といえば,保育所,幼稚園,学童保育などという,田中さんのことばを借りれば「狭い枠組み」でしか捉えられなかった私の保育観を覆す1つの契機,それはセンターに行きはじめたころに出会った「共同子育ての理論と実桟」でした。

田中:  センターの活動を代表するものの1つに「共同子育て」があります。設立当初,民間で草の根的に「保育」「教育」のことを考えましようと呼びかけたところ,大きな共感の声を寄せてくれたのは,地域のお母さんたちでした。私自身は働く母親だったので,育児と仕事の両立という問題意識はあったのですが,地域の子育てについては考えが及んでいなかった。個々の家庭に閉じ込められた子育てを何とか変えたいというお母さんたちの思いや行動力。ここにも私の人生をつくるステキな出会いがありました。誰だって自分の人生をよく生きたいと願って模索している。職場だけでなく,地域も自己変革というか,自己実現の場だということを学びました。

久賀谷:  そうですね。20年近く前から鈴木先生率いる共同子育て講演キャラバン隊でいろんな地域に出向いて行って共同子育てグループ作りのお手伝いをしていましたね。当持の合言葉は−−地域に共同子育ての輪を−−。鈴木先生はイタリアの保育運動を,「父親が保育運動に参加して,労働組合として闘っている。そして地域に新しい保育所ができると,所長制ではなく,保育所運営委員会がつくられ,保母・親・地域の人が参加し,保育時間・保育内容を決めていく。保母さんにだけ任せるのではなく,共同の取り組みを基盤にした新しい制度がつくられていっている」と紹介され,おとなも子どもも孤立化がどんどんすすんでいる現状を切り開くべく「“豊かさ”とは金銭的に豊かになることではなく,金がなくても暮らせるようにすること。そのためには,保育の公的保障制度の確立を求めるとともに,私たちの地域に“共同体”を創り出していかなければならない。私たちの共同子育てがめざすものは,1人の子どもが生まれたら,死ぬまでみんなでこの人を支えながら生きていこうという共同体をつくることです(1)」と訴え,共同子育ての種を蒔きつづけてこられましたね。そのなかで保育所の措置基準である「保育に欠ける」という枠を捉えかえし,拡大させる取り組みの必要性もクローズアップしていましたよね。単に働く親のための保育保障ではなく,子ども同士のなかで育ちあうという子どもの生きる権利という視点からも見直したりしていました。いま,地域子育てセンターがようやく公的にすすめられるようになってきたでしょ。20年経ってやっと市民権を得たような気がしますね。前号(2)で紹介した聖愛園(路交館)の草場さんたちの歩みも重なってきますね。

田中:
 そう。手前味噌だけど,大切な種が蒔かれてきたのではないかしら。20年前は一般的には保育の(社会化)と言われていました。「ポストの数ほど保育所を」ということばで象徴されるように保育所建設運動が主流でした。働く母親の子育て・保育の保障ですよね。保育の社会化−−社会的にやらなければならないと言われていたなかで,私たちはそれだけではなく,保育−−子育ての<共同化>ということを言っていましたよね。<社会化>ということばより<共同化>ということばのなかに夢を託していたというか,あずけるのではなく,みんなで育てるんだということですよね。地域の親は働いていないし,働かないと保育所には入れられないわけですから,地域でみんなで「共同子育て」をするコミュ二ティづくりを大切にしつづけてきました。<BR>
 その一方で保育所をみたときに,保育所もあずけっぱなしにする所ではなく,いっしょに育てていく所。保母という専門職と親という素人という上下関係ではなく,親も保母もいっしょに子育てをしていこうという方向があったと思うのです。

久賀谷:
 それが,現在言われている子どもや親主体の保育所を,ということですよね。主体ということばを使わなくても,今までずっと私たちは子どもや親をぬきにしては子育てなんて考えられなかったし,広くは子どもを取りまく環境,社会をぬきにしては語れないものでした。「共同子育て」に始まり,「子どもが主人公」「子ども主体」などことばは広く使われるようになってきたけれど,それが形骸化するとこわいですね。その真価が私たちのなかに問われているのでしようね。

 たとえば,先日大阪で第2回保育一元化会国フォーラムがありましたが,保育一元化も然り。制度としても具体的に提案されてきていますが,その根本に何があるのかということをきちんと踏まえておかないと,子どもや親を置き去りにしてしまうことになりますよね。

田中:
 あの時,神戸のお母さんが報告されたのが印象的でした。震災後,子どもたちの行き場かないので,自宅を開放して保育されていたとのこと。ほんとうの幼保一元化だと思いました。親や子どもに必要なのは何かというところから出発しているし,専門職の人にもインパクトのある発言でしたね。地域の財産として保育所や幼稚園や児童館がある。子どもの立場から考えると分かれている意味なんかないですよね。それをどう活用していくかが大切だと思います。


 子どもや親のニーズにあわせて,いろんな保育形態や内容,保育時間をフレキシブルにつくっていく柔軟性が,いま<措置>ではなく,<サービス>としての保育に求められているのでしょう。保育所(幼椎園)といった公的施設に対して「これは誰の建物ですか?」と問われたとき,「子どもや親のものです」と答えられるような発想の転換がないかぎり真の意味での実現にはならないのです。

●「同和」保育に学ぷ

 「あなたの保育の原点は何ですか?」と問われたら,私は迷うことなく「同和」保育と答えるでしょう。被差別部落の子どもたちや親たちとの出会いは私にとって保育観に止まらず人間観をつくりかえるベースとなっているのです。この連載のサブタイトルである「いのちをわかちあうくらし」はそのなかで生まれたことばです。

久賀谷:
 「同和」保育に出会っていなかったら,現在の私はなかったでしょうね。子どもや親から学び,返していくということ,保育は体系化されたものでも一方的なものでもなく,ともにくらす人と人との間でつくりあうものであるという原点は,差別の現実から学ぶという姿勢から教えられたことです。

田中:
 そうですね。上からつくるのではなくて,地域の親や子どもの実態から「保育」をみよう,「教育」をみる視点を大切にしたい。

 私の場合,どうしてもおとなに関心がいくんですが,お母さんやおばあちゃんたちの変化に感動しました。差別の中で文字を覚える機会を奪われた。でも,「文字を知らなくても解放運動はできる」,あるいは「夕やけという文字を知って,夕やけの美しさをしみじみ感じる」など,運動の中で自分を見つけ,さらに「保育」「教育」の大切さを主張していく姿に。おとな自身がまず自分に向き合わないと,子どもと向き合えないと思うから。

 久賀谷さんの場合は希望して「同和」保育所にはいったのですか?

久賀谷:
 新規採用のときに配属されたのが「同和」保育所だったのです。もう20数年前になりますが,同じ京都に住みなから生活のなかではじめて厳しい差別の実態に出会いました。私自身の部落問題との出会いは高校時代にさかのぼりますが,その頃は高校生特有の観念的なものでした。被差別部落出身の友人との出会いがベースにあるのです。友人の悩みやしんどさを自分なりに理解し,共有しあえる何かを見つけたくて,まず学校の図書館にある部落問題に関する本を読破したのを記憶しています。歴史の中でつくられた不合理な差別にすいぶん怒りを感じました。それは自らの生活を社会的に捉えていくという作業にもつながっていき,社会的視点を形成する歩みの始まりになったような気がします。

 ですから「同和」保育所に勤めたころ,自分では一所懸命でした。鈴木先生の本を読み,研究集会には希望してでかけ,熱い思いで走っていたような気もします。

田中:
 その頃はすべての子どもの“発達”をどう保障するのか,という議論でしたね。

久賀谷:
 そう,全面発達の保障というのが頭から離れなくて,必死でした。できないことができるようになることをめざしつづけていたから,子どもはしんどかったでしようね。根底には子どもや親の厳しい生活実態があったし,発達を保障することが解放につながると信じていましたからね。

田中:
 「乳幼児発達研究所」として発足するときから,“発達”というネーミングには疑問もあり,議論がありました。ただ,消してしまえば事足りるほど単純な問題ではなく,未解決のテーマとして,こだわっていこうということになったのです。とどまるところのない経済発展という時代背景もあって,より高い能力,より完全な能力をめざす発達観が大手をふっていましたね。

久賀谷:
 保母になって10年くらいは私もそれを信じてまっすぐ歩いてきました。ところが「乳幼児発達研究所」に集う人たちとの出会いの中で,実はそのことが子どもをつぶすような排除の論理に裏付けされた管理保育であったこと,1人ひとりの子どもを大切にと言いつつ,画一的にしか捉えていなかったことなどに気づかされたのです。なかでも研究部会の講師である早川勝廣先生(大阪教育大学教授)との出会いが大きかったですね。

 「解放の(生きる)学力」と「学校学力」,「かしこさ」の中身についてもよく議論しましたね。

田中:  「学力」とか「かしこさ」を個人の枠の中で考えているかぎり,その本質は見えてこないのではないかと思っています。人間はそれぞれに過不足いろいろあって,1人の「力」や「かしこさ」だけで生きていくことなんてできない。1人の人間でもその年代,年代によって変化しますしね。だから,「保育」「教育」の捉え直しも含めて「共に生き,共に育ち合う」,「共生,共育」ということでしようか。

久賀谷:
 「なんで?」と理解しがたいような子どもの言動や閉じた思いにまず寄り添うことから始めようとしたとき,はじめてその子のしんどさが見え,そこに親のしんどさが重なっていったのです。子どもを保育し,親を指導するといった傲慢さを捨て,ともにしんどさを生きる視点に立とうとしたとき,子どもも親も心をひらいてくれました。<からだをひらく>ことと<こころをひらく>ことは同時進行で,人と人とのかかわりの中でことばも育つということ・・・。部落の子どもや親との出会いの中で,言い尽くせないほど多くのことを学びました。

 そして解放のほんとうの意味を教えてくれたのは「障害」のある子どもとの出会いでした。「ありのままの姿,いまのそのままであたりまえなんだよ。いいんだよ」ということを認めあわない限り,すべての子ども−−人間が解放されることなんてあり得ないですよね。「障害」のある子もない子もともに育ちあう共生保育は「同和」保育運動のなかで生まれ育まれてきたと思います。解放保育から人権保育ということばが生まれてきたと,私は考えるのですが・・・

田中:
 「共に生きる」と言っても,世の中,ちょっとした差異でさえ偏見や抑圧を生み出してしまうのが現実ですよね。精神的な荒れやテロリズムの台頭などの問題もつきつけられています。「人として,みんな生まれながらにして自由・平等だ」という「人権」の思相はさまざまな違いを超えて「共に生きる」道を探る人類ギリギリの知恵なのではないかと思います。
<「人権」の主体としての子ども・おとな>

 1994年,日本で『子どもの権利条約』が批准されたのを機に,「乳幼児発達研究所」は「子ども情報研究センター」に改称されました。

久賀谷:
 名前が変わって以来,「乳幼児」にも「発達」にも縛られないで,もっと長いスパンで子どもを見つめ,<子どものための>ではなく,子どももいっしょにというか,<子どもも参加する>場として位置づけ,子どもとどんなふうにパートナーシップをむすんで歩いていくかということを探ってきましたね。

田中:
 そう,「乳幼児発達研究所」と言っていたときは,子どもが主人公だと思いながら,おとなが「子どものため」を一所懸命考えていましたよね。だけど,子どものことは,まず子どもに聞くということも必要だと,子どもといっしょに考えていくというふうに変わりたいと思ったのです。

久賀谷:
 それ以前の1989年に研究部会の名称変更はしていましたよね。私が参加していた「乳幼児の言語発達部会」は「子どものことばと生活部会」に変更。これは「言語発達」から「ことば育て」として捉えなおしてきた歩みの結果です。能力としての「言語」獲得をどう図るかということではなく,生活の中で1人ひとりの子どもの生きざまと出会うべく,表現としての「ことば」をひらいていく「ことば育て」の大切さは,子どもの声に耳を傾ける取り組みから学んだことです。

田中:
 それは12年ほど前に部会で編集し,出版した『なにすんねん いたいやんけ』(3)に重なることですよね。あれも子どもの声を聞こうとしましたよね。やはり子どもの声から出発しようということでしたっけ。

久賀谷:
 あの頃は,紙と鉛筆片手に子どものことばを採取していましたね。そのなかで,子どものことをわかっていると自負していても,実際はわかっていなかったり,子どもがみえていないことが多いことがわかってきました。おとなにとっての都合のよい思い込みや解釈こそ,子どもにとっては迷惑ですよね。そこで子どもの声をありのまま受けとめることから始めたのです。子どもの声を聞くことは,その思いと同時に生活の実態を知ることでもあったし,何よりも私たちおとなの姿がこわいほど反映されていました。

田中:
 子どものことばを採取した本は他にもいろいろあったけど,子どものことばに私たちおとながどう向きあい,どう返したかを大事にしたところが,ミソだと思うんですけど。

久賀谷:
 子どもの声という事実を前にして,それをどう受けとめ,返していくかはその人の感性の問題。「そんなこと思わない」「それは深読みのしすぎ」という人もいれば,「そこまで思う」という人もいる。それぞれちがうでしょ。部会では1人がたたき台をつくってそれをみんなで議論しながらつくりなおしていきました。受け手としての自分が応えをだすことは自分自身の感性が問われるわけです。そこには自らの変革を抜きにして子どもを変えることはできないという原則がクローズアップされてきます。

田中:
 そうですよね。今子ども主体ということがいろんな場で言われているでしょ。私は子ども主体と言ったときには,かならずそこにいっしょにくらしているおとなの主体というものが問われると思うのです。主体のぶつかり合いの中でお互いの主体も新しく形成されていくのではないかしら。

久賀谷:
 子ども主体というのは,今までのおとな主体から子どもの意見を聞いておとなの意見も伝えてという相互作用の中での関係性を大切にしようということでしょうね。

田中:
 主体と言うとお任せみたいに受けとめられて,自由か管理か,という議論になると困るな。

久賀谷:
 私たちおとなが子どもをどれくらい同等の関係として大事にしているかどうかで子どもは生きもし,死にもする・・・。

田中:
 『なにすんねん いたいやんけ』に取り組んでいるときはみんな,いっしょに生きていこうとするおとなと子どもの真剣勝負みたいな感じでしたね。

久賀谷:
 そうですね。いつも思うことなんですが,私たちは,たとえば保育所時代という限られた時間のなかでの子どもとのくらしがあります。いまを共に生きるということと,同時にそれから先の長い人生を歩く子どもに対して,どうあってほしいかという願いとともに,子どもといつ再会しても「あなたと同じように歩いているよ」と言いつづけられる自分でありたいと思っています。このことが私にとっては一貫したテーマですね。

田中:
 それは親もいっしよだと思います。私は私の人生に責任をもって,できるようにやっていこう。結局それが子どもにとっても一番大切なことかな,と。

久賀谷:
 おとなにはもう1つ大きな責任があると思います。すべての子どもが自分のいのちはすばらしいんだ,ありのままでかけがえのないいのちなんだと感じられるということ,これはすべてのおとなの責任でしょうね。それに応えをだし,生き方を模索していくのは子ども自身・・・。

田中:
 そのためには,おとな自身が自分のいのちをいとおしいと感じられること・・・って思います。

久賀谷:
 そうですね。そして,共に求めあう手は,おとなも子どもも,いつでも,どこででも大切にし続けたいですね。


 それぞれの生き方を大切にしつつ,ときに寄り添うということ・・・先日,療育事業で担当している年少の男の子のお母さんがこんなエピソードを伝えてくださいました。

 「うちの子はいつも人より倍元気でしょ。保育所の行き帰りも先にどんどん走っていくんですよ。ところが,Mくんという同じクラスの男の子といっしょに帰ったときのことです。Mくんと手をつないで歩いているTのペースがいつもとちがってとてもゆっくりなのです。『走らへんの?』と尋ねると,『Mくんはゆっくりなんや。ゆっくり歩くのがいいんや。だからぼくもゆっくり』という答えがかえってきました。」

 素朴に自然に人とふれあうことの心地よさを感じはじめたのでしょうか。そんなさわやかな人との交わりを私のなかにも取り入れて歩いていきたいものです。

 旅の終わりに,そして新たなる旅のはじまりを記念して・・・。


引用およぴ参考文献
(1)鈴木祥歳編 1988 子育てブックレット No.1
   共同子育てをすすめるために 乳幼児発達研究所
(2)連載第16回 発達No.77
(3)乳幼児の言語発達部会・早川勝廣編 1985
   子どもとことばとの出会い「なにすんねん いたいやんけ」
   乳幼児発達研究所

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