子どもと生きる

〜いのちをわかちあうくらしを訪ねて〜

(ミネルヴァ書房「発達」64号,1995:秋 連載第3回)



 生野子どもの家は「発達障害」を持つ子どもの通園施設です。「障害」を特別な訓練によっって「治すべきもの」として捉えず,むしろそれを受け止めながら付き合っていき,お互いに変化していくことを大切に保育されています。また,「障害」をもつ子ももたない子もともに地域に根ざして生きることを大切にしようと,12年前から自主運営により生野のびのび幼児クラブを併設して逆統合保育に取り組まれるようになりました。

 定員は「障害」児30名,「健常」児20名で,毎日クラスとして学齢前の子どもたちが通園しています。それ以外に母子通園を原則とした1,2歳の子どもの週2回クラスや親子でからだを動かしてあそぶ(リトミック)週1回の「出会い教室」,子育て相談室など,地域の子育てセンター的役目も展開されています。


   所在地:大阪市生野区田島1丁目16-10
   電話 06-753-0047



生野子どもの家の子どもたち

 連載が始まった頃のことです。私は職場の友人と『生野(いくの)子どもの家』についてことばを交わす機会を持ちました。友人に貸した本の中に『生野子どもの家』が紹介されていたのです。以前,私は研究活動をともにしている仲間から『生野子どもの家』について紹介されたことを思い出しました。通園施設に「普通」の子を受け入れて<逆統合保育><自由保育>をしている所というのが印象深く残っています。−−どんな人たちがどんな思いで働いているんだろう。どんな親たちがあえて通園施設に「普通」といわれる子どもを通わせているんだろう,と私たちの興味は深まりました。
 夏のある日,私は『生野子どもの家』に連絡をとり,訪問の機会を得ることができたのです。さて,どんな人に出会えるのか,とても楽しみでした。


荒井 征子さんを訪ねて

 7月の終わり頃,真夏の太陽をうけながら私は大阪へと向かいました。『生野子どもの家』は,JR鶴橋駅より市バスで15分,バス停近くの生野カトリック教会内に建っています。

 快くインタビューに応じて下さったのは,開設当初からおられるという荒井征子さん。現在も現場の第一線で子どもたちと関わっておられるとのことでした。「自由に見学して下さい」と,荒井さんに案内された部屋は広いオープンシステムのプレイルームでした。天井のパイプに吊るしてある戸板に乗っている子,トランポリンで飛んでいる子,本を読んでもらっている子,ままごとコーナーにいる子など,一人ひとりが自分の遊びたい所で遊んでいます。グループで遊んでいる子もいれば,一人で遊んでいる子もいます。ちょうど登園時間帯だったので保護者も何人かおられたのですが,職員との見分けがつきません。私はここで行われている自由保育,一人ひとりが対等の関係というのをかいま見た気がしました。

 今日はプール遊びの日。週に4日はプログラムを設定して保育されているとのことですが,参加するかしないかは,子どもの自由です。一人の保母さんがギターを手に歌いだすと子どもたちが自然に集まってきていっしょに歌ったり,おどったりしだしました。これもまた参加自由。参加せずにすみっこのコーナーでおしゃべりを楽しんでいる子もいます。そんな中で,そっと気になる子のそばにいき,さり気なく姿勢をかえてあげたり,未歩行の子の移動を助けている子どもを見守ったりされている荒井さんの姿が印象的でした。

 遊びの時間に負けないくらいにぎやかだったのが,給食の時間。「食事は静かに,姿勢正しく,こぼさずに」と,とかく躾けが重んじられがちですが,ここは,そんなことが通用しない給食風景。好きなテーブルで好きな友だちといっぱいおしゃべりして,自分でおかわりして・・・とエネルギィッシュな子どもたちからは,<食べることは生きること>ということが伝わってくる風景でもありました。


子どものあるがままを受けいれて−インタビューより−

 「知的障害」児の通園施設として開設された当初からおられるという荒井さん,『生野子どもの家』との出会いを尋ねました。

 私は1973年頃からここにいます。福祉関係の大学を卒業して4年半ほど大手前整肢学園という肢体不自由児の施設にケースワーカー兼指導員として働いていましたが,その当時はやめていたんです。ここの母体となっている生野カトリック教会で,大阪市内には「発達障害」児の通園施設が1カ所しかないので,もう1つつくりたいという話があったのです。当時の神父と以前大手前整肢学園の職員仲間だった方が中心になって計画をすすめておられる段階でいっしょにやらないかと声をかけてもらったのが始まりです。設計の段階から何人かで集まってすすめていきました。


●広い空間で自由にあそぶということ

−−当時からオープンシステムを取り入れられていたのですか?

 建物は開園当時からのものです。設計する人が外国の施設を見てまわり,それを取り入れて設計してもらったんです。子どもが自由に体を動かせるようにしたいということや,基本的に教室として仕切らないでオープンでやりたいというのは,保育のことを考えていくなかで話しあっていたんです。「子どもを閉じ込めるというやり方はしないでおこう,自由に動いて遊ぶ場にしたい」ということで,このような建物になったのです。

 その当時は知的な遅れのある子に関しては,学校に行くまでほとんど放ったらかしという状態が多かったんです。大変だから家庭に閉じ込めておくという状態でした。ですから,「とりあえず外に出して子どもたちを自由にしてあげよう」という思いがあったんです。広い空間で動けるし,高い所にも登れるし,といったことをまず保障したいという気持ちがありました。

 ここに見学に来られた方はびっくりされることが多いんですよ。雑然としていて,子どもたちがあちこちで遊んでいるでしょう。保母と親の区別がつかないともよく言われます。こういうやり方というのは,放っておいても流れるんです。例えば職員が何もしなくても子どもは遊んでいますしね。でも,自由保育をやりきろうと思うと,私たちがどれくらい一人ひとりの子どもを捉えているかということが問われてきます。その子がなんでそんなことをやっているかということを理解するには,一人ひとりを把握していなければならないんです。この時間にこれをしましょうという一斉保育では,できる子とできない子がでてきますでしょ。それは,はっきり出てくるから見やすいんですよ。「この子はこれができないからあかん」という発想にもなりやすいんですよね。ここのような保育では子どもたちが自分の好きなことをしますから,できるできないといった基準で見ることはありません。ただ,子どもたち一人ひとりはそれぞれの問題・課題を持っています。そのことをこちらが把握して,一人ひとりとどう関わっていくのかということを考えていかなければならないので,そういった意味ではしんどいですね。



●逆統合保育をすすめて

−−「障害」児の中に「健常」児を受け入れるという発想はどういったところから生まれてきたのですか?

 いわゆる逆統合になってからは12年位経ちます。それまでは,「障害」をもつ子ももたない子も地域の中でいっしょに生活することがあたりまえで大切なことと思い,子どもたちを地域の保育所や小学校に送り出す一方でいろんな要求を保育所などにも出していました。でも『統合保育の実際はわからないだろう』と言われ,聞いてもらえないこともありました。私たち自身が統合の中身を知り,深めることの大切さを痛感するなかで逆統合保育に踏み切ろうということで始めたんです。でも,当時は通園施設にいわゆる「普通」の子が入ってくるだろうかと心配でした。最初は在園児の兄弟や,卒園児の弟や妹が来たりし始めました。また,幼稚園や保育所でなじめなかった子などもやって来ました。保育自体はいいと思うんですよ。子どもらも楽しそうにすごしていますし・・・。いまさら「障害」児だけの保育なんて考えられないし,そのためにも「障害」児のかかえている問題を,発達のつまづきといったものでなく,社会の中でその子がおかれている状況としてしっかりおさえていく視点があいまいにならないようにしなければならないと思っています。ここではみんなあるがままに受けとめあい,あたりまえに生活しているんです。ここにいたら差別も何もないし,居心地がいいんです。ここの中だけで見ていると,一歩社会に出ると全然ちがうというきびしい状況がなかなか見えないということがありますね。それが危険だなと思います。園長は「障害は個性だ」と言い切ったりしていますし,私もそうだと思うんですが,ただ,それがとおらないんですよ,世の中はね。そのへんをどうしたらいいのかと悩みます。


地域に根ざす生活を求めて

●親として指導員として

 実は私もね。私の子どもが「障害」児でね。ダウン症なんですよ。現在小学校3年生なんですが,普通学級に入っているんです。担任の先生はすごく熱心な先生で,学級の中で受け入れて一所懸命やってくださるんです。勉強はダメなんですけどね。私はここに来ている(「障害」をもつ)子の親にも言っているんですが,とにかくみんなの中にいたらいいと。みんなの中にいてね,そこでいろんなことがおこって,その中でこの子も仲間やし,いっしょにいるんよっていうところが,まわりの「普通」の子たちも肌でわかっていくようになると思っていたんです。先生にも他の子と同じように接してくれ,特別視しないでくれと言い続けてきているわけなんですけどね。でもやっぱりうちの子はちがうんです。周りの子どもの目から見ると,やることはとろいし,勉強はできないし,みたいにね。子ども同士の関係を考える時に,同じだと言っても,個性だと言ってもね,それだけではとおらないというのを感じて,親として悩むんです。他の子がやっても問題にならない行動でも,うちの子がやると問題になるんです。「あいつあんなことやってる」みたいにね。うちの子にはとりわけ強くあたるわけなんですよ。それはなぜかなって思います。やっぱり勉強ができない子はダメだという評価が子どもたちの中にあるんでしょうね。その子たち自身がそれによって評価されているんですから。だけどやっぱり「障害」をもつ子ももたない子もいっしょに育ってほしいと思っているんです。その時,あるがままを認めあうってむずかしいんだなと思います。子どもの家では,子どもたちが小さいということもあって,そんなこと気にしないでやっていくことができるんですが。理屈ぬきに肌でつきあっていて,いやなことはいやだと思っているし,知らんぷりする子や世話好きな子やいろんな子がいるんです。でも,それはいろんな気持ちからの出発でいいと思っています。いっしょにいて,いっしょに生きてくらしているというあたりまえのところで捉えればいい,排除しないで,存在を認め合えればいいと思っているんです。


−−お子さんが生まれられてからは親の思いもあわせ持って歩いてこられたんですね。

 自分ではそんなに意識はしていないんですが,やはり生まれる前とはちがうでしょうね。以前は親の本当の辛さ,悲しさみたいなところをある程度わかっていても,それは無視して自分の思いやあるべき姿を言い切ってしまうことがありました。外の社会にもっと強く出ていかないとだめだといった具合に・・・。それが自分の子どもの時はかなり引いてしまうんです。そんなことがあると,他の親もそうなんだなと気持ちを重ねてしまいますね。私たちは親に対して学校や保育所に自分たちの思いや希望を訴えていくべきだといろいろ言うのですが,実際は本当にしんどいことなんだと痛感します。そういう意味では,子どもができて良かったなと思っています。

 父親も子どもに関しては同じ思いで育ててくれていますし,同じだけ子育てにも参加してくれています。私の場合,生後5カ月から保育所に預けることができ,また,ここが理解のある職場だったから今まで仕事を続けてこれたんですよ。今でも5時に仕事が終わると飛んで帰るんです。それまでは近所の人が見てくれていたりするんです。まわりに恵まれているなと思います。でも,「いくらでも預かってあげるよ」と言ってもらっても,即「お願いします」と言えない,どこかに気を使ってしまうところがあるんです。職場では反対のことを言っているのにね。私自身乗り越えていくべき課題だと思っているんですが,むずかしいですね。私も含めてもっと大人同士がつながり合える場を作っていきたいと思っています。


 ちがった立場に身をおき,物事を見つめてみると,今まで見えなかったものが見えたり,感じられたりします。人は矛盾の中でそれらの思いと出会っていきますが,それは一層深く真実を探究することにつながっていくのではないでしょうか。荒井さんの話を聞きながら,私は1年前の自らの思いを振り返っていました。

 現在の職場(保護者・子通園施設)に異動した昨年,私が出会ったことばは,『進路』という2文字でした。私の園では低年齢児が通ってくることが多く,療育期間は子どものニーズによって異なりますが,基本的には1年単位になっています。そのため,春から通いはじめて半年も経たないうちに,子どもの『進路』について考えなければならないのです。一人ひとりの子どもにとって最も適した生きる場(進路)を親とともに模索し(限られた枠の中で),求めても,それがすべてかなえられるとは限らない現実を前にした時,私の中にさまざまな思いがふつふつと湧いてきたのを思いだします。子どもたちを通園施設,保育所,幼稚園などに送り出す側となった私から見れば,それまでの私は全く反対の立場にいました。保育所にいて受ける入れる側として多くの子どもたちと出会っていたのです。統合保育をすすめる中で「障害」をもった子ども,親との出会いも重ねてきました。それらの日々を振り返った時,しんどさや痛みをどこまでいっしょに背負うことができただろうかと自らに問う思いでした。保護者・子通園後の保育所になじめなくて転園してきた子,保育所に入るためにわざわざ転居されて来た方,はじめての保護者会で自分の子どもの「障害」について必死の思いで語られた親など,それらの思いを,改めて深く受けとめられた気がしました。子どもの側に立ちきる,子どもや親のしんどさを共に生きるということの大切さとむずかしさを感じつつ・・。


地域で生きる仲間たち

−−開園当初からの職員は荒井さんだけですか?

 開園当初の仲間はもうみんないなくなってしまいました。近くで共同作業所やグループホームなどをやっている人たちが,以前はここで働いていたメンバーなんです。卒園して大きくなった子どもたちの問題を考えて,自らもここを出て共に生きている人たちなんです。そういう意味では,ここの保育だけではなく,地域に根ざして共に生きていくという思いがつながっていますね。それまでは,仕事をしながら休日を返上して卒園した子のアフターケアをやっていたんですが,両立しきれなくなって独立することになったんです。

 ここの第1期生として就学前に入園してきた子らはもう26〜27歳になっています。この子らが先駆者となって地域で生きる場を模索し,考えていったという経過があります。現在は独立した組織として「出発のなかまの会」と呼んでいます。この周辺に共同作業所が2カ所,グループホームも3カ所あります。それ以外には地域活動センターと言って,ガイドヘルパーのような組織を作っています。作業所へ行っている子の余暇活動を保障するためのヘルパーをつけたり,余暇活動を支援する場所として作られたのです。

 職員もそのように共に育ってきました。だから卒園してもつながっている子どももたくさんいるんですよ。ただ,子ども以上に親御さんとのつながりがある場合もありますね。私自身「障害」児をかかえていて,親としては保護者の方が先輩になりますしね,いっぱい助けてもらったこともあるんです。そんなつながりを思うとできるかぎりここで働き続けたい気持ちがつのりますね。



●地域で支えあう仲間づくり

−−親同士のつながりを意識的につくったりされているんですか?

 昔からクラスを年齢別じゃなくて,地域別にわけています。通園バスでまわる各バスターミナルごとに集まる人たちを同じクラスにしているんです。ですから人数も年齢もバラバラです。子どもはクラスや担任と関係なく保育していますが,親はクラスごとに懇談会をもち,交流しています。ここを卒園すると親はバラバラになるでしょ。そうするとかならず「障害」児の親は孤立するんです。ですから,できるだけ地域で知り合い,つながっておくというのを大切にしています。以前はそこの地域へ出向いて保育したこともありました。親同士で話し合ったり,卒園した親を呼んで話を聞いたりもしました。親同士で卒園してからここを基盤にサークルをつくり,集まっているグループもあります。そこに在園児の親も参加したりされています。地域の中でそのような活動をもっと深めていくことが大切だと思っています。


ともに生きるということ

 親として,指導員としてさまざまな悩みや問題をかかえながらも,荒井さんは「どんな障害があっても地域に根ざして共に生きていくことの大切さというのは信じています」と,熱く語っておられました。その心の奥には,以前勤めていた施設での体験がひそんでいたのです。

 以前いた施設では,入院の宣告を受けるとどんなに小さい子でも否応なしに入院してくるんです。すると1週間位は夕方になると玄関に行って泣くんですよ。親だって手放すには忍びないところがあるんですがね。子どもたちが病院での生活に慣れてくると週末に外泊するんです。でも,長い間,家から離れていると,今度は家にその子の居場所がないんですよ。その子のいない中での生活,家庭になってしまっているんです。家族の気持ちの上ではそうでなくても,帰った時にその子がどこか居心地の悪い思いをするんです。お客さんみたいにね。そしたら,子どもは,「施設に帰ってきたい」みたいなことを言うんです。そういう姿を知った時,どんなに良い施設でも施設は施設だ,入れたくないという気持ちになりました。施設に入れないためにはどうするのかということが私にとっての出発になりました。親が子どもの世話をできなくなっても,誰かが助けていく,地域で支えあっていける方向を模索したんです。それが現在の歩みにつながっているのだと思います。

 「普通」の子が入ったことによってここにいた子がどうなるということはまだまだわからないんですが,「普通」の子が小学校へ行き,大人になった時に「障害」児と共にいたことがどういうふうにその子のなかに残るのかということを見届けたいですね。


−−ここでされていることがあちこちで地域でされていくといいんでしょうね。

 そうなんですよ。ある意味では,ここは普通の社会ではないんです。現在の社会は,「健常」児が多くて「障害」児が少ない。それが社会でしょ。その地域の中でその子が「障害」をもっていようがもっていまいがいっしょに生きていけたらいいんです。でも,ここに来ている「健常」児はどっちかというと地域を離れて来ています。ここの自由保育がいいといって,親が選んで来ている場合が多いので,私たちは矛盾を抱えているのです。「健常」児の親は「障害」児についても理解があり,積極的にかかわられますが,自分の子が地域の学校に入学し,そこで出会った「障害」児に対して,どういうふうに支援できるかということが問われてくるんです。「障害」児の親に対してもありのままに社会で生きていけばいいと言い続けていますが,やはり社会に出てつぶされるケースもあります。その辺が,私たちにとって大きな課題です。

 <共生−ともに生きる><共育−ともに育ちあう>,いろんな場でいろんな人たちから耳にすることばです。私自身今まで多くの場で多くの人たちに語ってきたことばでもあります。軽々しく語れることばではないとわかりつつも言わずにおれない思いを携えつつ,荒井さんとの出会いのなかで,一層そのことばの重みを感じました。それは社会のきびしさ,実践の困難さと比例しているように思えます。あたりまえに,あまがままに受けとめ,生きている子どもの家の子どもたちや大人たち,そのような生き方がむずかしい世の中だからこそ,私の目には一層輝いて映ったのかも知れません。社会のきびしさの中で,静かに絶えることなく出し続けている荒井さんのエネルギーは,しなやかにしたたかに生きながら,大人たちをも支えている我が子や『子どもの家』の子どもたちの<いのち>から生まれてきているのでしょう。私の園にやってくる子どもたちも時々私に鋭く,やさしく問いかけてきます。
「普通ってなに?」「障害ってなに?」
 私もまたそんな子どもたちの問いかけに支えられ,生かされているのです。


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