子どもと生きる

〜いのちをわかちあうくらしを訪ねて〜

(ミネルヴァ書房「発達」68号,1996:秋 連載第7回)


 神愛保育園は1951年に賀川豊彦氏によって創立され,地域の人々から「十字架保育園」と呼ばれて親しまれ続けています。産休明けから就学前までの73名の子どもたちが毎日元気に通っています。保育時間は,午前7時30分から午後7時まで。働くお母さんへの援助活動は創立以来の目標とのこと。また,一人ひとりを大切にした保育を願うなかで,保健所と連携して「障害」児を積極的に受け入れ,「障害」のある子もない子もともにくらすことをすすめておられます。
 地域に開かれた保育園として,未就学児を対象に親子で集う場を提供,育児相談をしたりと,子育てセンターの役割も担っておられます。保育園プラス子育てセンターではなく,保育園イコール子育てセンターというのが園のモットーです。
  所在地:東京都江東区森下3-10-7
   電話:03-3633-1580



都会のぬくもりを求めて

 1年のうちに私は何度か東京を訪れる機会をもちます。生まれて以来京都に住みつづけている私にとって東京は、いくたび足を運んでもそびえ立つビルと人の多さに呑み込まれそうで、馴染むには程遠い町だという印象を拭えませんでした。

 その町の本当の良さは住んでみないとわからないとよく言われます。人々がくららしを営みあう町、そこには外的環境だけでは測り知れない愛着というか、住んでいる人々が創り出すぬくもり、息づかいがあるのでしょう。その土地の人々に出会い、くらしにふれることによってその町はきっと生き生きとした存在として迫ってくるのでしょう。

今回、私は東京の下町の保育園で子どもたちとくらしをともにされている保母さんを訪れる機会を得ました。数えきれないくらい訪れている東京ですが、はじめてその町のぬくもりに出会うことができた旅だったのです。


下町に根づく保育園−依田さんとひまわり組の子どもたち

 隅田川の流れる下町にある神愛保育園を訪れたのは、夏の真っ盛りである8月初旬でした。ところがこの日に限り秋のような涼しさ。早朝出勤をされていた依田幸子さんを訪ねて私もまた早朝訪問となりました。

下町情緒の漂う町並みのなかに一軒家と変わらぬたたずまいでまわりに溶け込むように神愛保育園は建っています。

ひっそりとした早朝の保育園で依田さんが2〜3人の子どもたちとゆったりあそんでおられました。初対面とは思えないようななつかしさが感じられる笑顔におもわず私は引き込まれてあがりこんでしまっていたのです。依田さんは4,5五歳児合同クラスのひまわり組の担当で主に5歳児を担当されています。朝,職員がそろうまで2歳児〜5歳児は合同保育。室内が広く感じるように工夫されている押し入れ上の空間などを子どもたちはうまく生かして自由にあそびはじめていました。

対等に呼びあうことから始まる関係

 子どもたちはそれぞれに依田さんのことを「よだちゃん」「よださん」「よだっぴ」などと呼びます。保護者も「依田先生」ではなく「依田さん」と呼んでおられました。そのことについて依田さんは,「私たちのなかではとりたてて先生というような呼び方は必要ないし,ふつうに○○さんという形で呼びあう方が自然でいいなと話し合ってすすめたんです」。その歩みは相当長いようで,しっかり根づいています。

 対等の呼び方は対等の人間関係を示唆します。朝,女の子たちのごっこあそびに寄っていた依田さんがその場から離れて他の子の対応をされていたときのことでした。今までいっしょにあそんでいた女の子が依田さんに声をかけました。「よだちゃん,おかたづけした? やめるんだったら,かたづけてね」。そして,自分が使っていた積み木をかたづけた依田さんに女の子はもう一度声をかけました。「かたづけた?」「かたづけたわよ」と依田さんは返事されました。すると「まだ残っているでしょ」と女の子。なるほどそう言われれば2,3積み木が残っていたのです。「あら,失礼」と言って依田さんは完全にかたづけられました。言いたいことが言い合える関係は言いたいことを聞いてくれる人がいるということがベースになっています。集団でそのことを成立させるにはそこにいるすべての大人が子どもの声をまるごと受け入れるという原則を共通して持たなければならないでしょう。依田さんと子どもたちの会話は神愛保育園の大人と子どものかかわりを象徴しているようでした。

 そんななかでクラスに1人だけ「よだせんせい」と呼ぶ男の子がいたのです。それはそれで誰も非難しません。私はすてきだなと思いました。人とちがうことをすれば,ともすれば仲間はずれにされ,『みんないっしょ』が好きな日本的集団主義のなかでは特別視されることが多いのです。1人ひとりの思いが尊重されるというあたりまえのことがこんなにも新鮮に映ることに私は最近ますますある種の危惧を覚えます。子どもにとって生きにくい場があまりにも多いという・・・。

子ども同士であそびや活動をつくりだす

 だんだん子どもや職員がふえていくと自然に活動範囲が広がっていきました。保育園の園庭代わりの隣の公園にでかける子どもがいると職員も誰かがついていきます。絵の具で絵を描きたい子は「よださん,絵の具出して」と要求。絵の具と画用紙が用意されると自然に描きたい子が集まってきます。クラスを越えての活動もしばしば。その場にいる職員がその場にいる子とかかわり,それぞれの活動が保障されていくのです。クラス担任の人数は国の措置基準をはるかに上回っています。4,5歳児混合クラスの担任は4人です。「すごいでしょ。みなさんに言われちゃいます。子どもの要求にあった活動を保障したい,でも反面大人がたくさんいることの弊害も考慮にいれつつ動いています。」

都会のなかで自然と出会う

 この日は真夏とは思えないような涼しさで子どもたちは誰からともなく「散歩にいこう」と声をかけあっていました。大都会の下町の散歩。どんなところをどういうふうに散歩するのだろうかと私は興味津々でした。

 車の行き交う大通りを歩きだすと方々の家の軒先から声がかかります。「どこへ散歩にいくの?」「気をつけてね」。地域に根ざした保育園を肌で感じることができます。

 そして歩道には所狭しと夏の花々,野菜,あげくにはブドウまでプランターで育てられているのです。子どもたちは見逃すことなく,着目します。「わあ,きれいだね」「お花がさいてるよ」と口々に感動を伝えあっているのです。鰹節工場をのぞき,川の上を走っている水上バスに手をふり,木場公園にたどり着きました。ここでも子どもたちは身近な自然にしっかり出会っていました。数少ないトンボやチョウをしっかり追い,つかまえては逃がしてあげているのです。草花を摘んでの髪飾り,広い池はたちまちプールと化しました。男の子も女の子もパンツ1枚になって気持ちよさそうに水しぶきをあげているのです。

 そのなかにこの春まで通園施設に通っていたSちゃんという女の子がいました。Sちゃんは他の子と同じように水あそびがしたくてあぶなかっしい足取りで池の真ん中まで行こうとします。それを友だちが制止したり,手伝ったり・・・。依田さんたちはそんな子ども同士のかかわりをまわりでゆったりと眺めておられました。そしてひとりの女の子にシャツを脱がせてもらったSちゃんは,とたんにうれしそうに水あそびをはじめました。大人が先に入っていくのではなく,子ども同士のふれあいを大切に,支えあい,認めあえる仲間として育ちあってほしいと願っておられるのでしょう。子どもを信じて待つ姿がそこから伝わってきました。

 広々とした木場公園は園から歩いて20〜30分の所にありました。そこに着くまでの町中の道路でこんなに多くの身近な自然に出会うとは思いも寄らないことでした。帰りがけには熟れたプチトマトをとらせてもらって大喜びの子どもたち,どの子も自然を見つめ,自然に働きかける楽しさを知っています。都会のなかでの数少ない限りある自然だからこそ出会いがより感動的なのだと子どもたちは語っているように思えました。1人の子が私に語ってくれました。「保育園にはね,トウモロコシもあるよ。お米もあるよ」。依田さんにうかがうと「屋上のプランターで少しですがいろんな野菜を育てています。稲も少しあって子どもたちはとても楽しみに世話しているんですよ」とのこと。

子どもはどのような条件のもとでも育つ。育ち様を問うことが大切なのでしょう。生きている場でどのようなものに出会ったり,どのようなものを培っていくのかというくらしの質によって子どもたちの目の輝きは変わってきます。キラキラ輝く目をもった神愛の子どもたちは,そのことを私に教えてくれました。


子どもがいる風景のなかで−インタビューより

 短大を卒業してから3年ほど荻窪の幼稚園に勤められていた依田さんが神愛保育園の存在を知るきっかけとなっのは,新聞広告の小さな求人欄だったとのことです。出会いのなかでのときめきをたずねてみました。

 たまたまその求人広告に障害児保育に興味のある方というようなことがでていたんですよ。私はそれまで障害児保育なんてやったことはなかたんですが,とりあえずどこかへ就職しなければと思っていたので,訪ねてみたんです。するとわりと肌があったというか,心ひかれるものを感じ,勤めることになったのです。

障害児保育との出会い

 神愛保育園で統合保育に取り組み始められたのは,私が勤める3年程前からだと思います。「障害」をもった子もみんないっしょに育とうという考えで始まったのです。

 私が初めて受け持ったのは3歳児クラスで自閉的な傾向をもった子どもと精神発達遅滞の子がいました。はじめてのことで試行錯誤の日々でした。その年は,その子たちを何とかしてみんなの中に引き込むというか,みんなのペースにその子たちをひっぱりこむようにして何とか3歳児というクラスを自分なりにまとめていこうという幼稚園に勤めていたころと同じようなクラス作りをしようとしていたんです。そんな意識はなかったんですが,自分がやっていた保育を考えてみるとやはりそうだったんですね。当時は,まだ保育園でも「デイリー」といって1日の流れを決め,活動を時間で細切れにして子どもをその流れにのせていく方向にありました。ほんとうにそれでよいのかと保育そのものを捉えかえしつつある最中だったのです。そのようなきっかけを与えてくれたのは,「障害」をもった子どもたちでした。全体の流れのなかですぐに活動を切り換えられる子もいれば,何かが変わっていくことですごく混乱を起こす子もいます。1日の流れを細かく時間で区切るという保育のやり方や自分のクラスがわからずにいろんな所へいってしまう子をただクラスへ戻すだけでいいのだろうか・・・などと検討していきました。そしてまず保育者のためのクラス主義を取り払い,子どもの思いがかなうくらしの場として位置づけるなら,それぞれのポジションできた子を受け入れていくようなやり方をしていこうと話し合いました。

 こうした取り組みは,はじめは確かに「障害」をもった子に対する私たちの配慮だったのですが,検討を進めるうちすべての子どもにその考えがあてはまるということ,一人ひとりを大切にするという保育の原点に通じることを学ぶことができたのです。そのような捉えかえしのなかで,私自身もその場,その時に自分の前にいる子と気持ちよくすごすためにはどういうふうなかかわりが必要かというような考え方が少しずつできるようになっていきました。すでに確固たる保育観が出来上がった後入っていくのではなくて,自分自身もスタッフとしてそれを作っていく過程のなかでともに歩むことができて,とてもよかったなと思います。



ともにくらすということ

子ども同士のつきあいに学ぶ

 「障害」をもった子とかかわるとき,最初私たちは一所懸命考えてどういうふうにしてあげたらいいのかと悩みますが,そのうちに子どもの方が「いっしょにいこう」とか,本当に当たり前のことをさらっと言ってのけて仲間に入れたりしていますね。

 いまのクラスのSちゃんとの出会いのときもそうでした。今日,散歩のときにずっといっしょに手をつないでいたKちゃんが,一番始めにSちゃんと仲良くなったのですよ。入園した4月当初のSちゃんは朝からずっと泣いていました。私たち大人はSちゃんの好きなあそびを見つけていっしょにあそぼうとするのですが,どうしてもSちゃんの気持ちをお母さんがいなくなった不安から離してあげられなかったのです。そのときKちゃんがそっとSちゃんの手を持って「せっせっせ」のように振ってあそびだしたんです。それをしているうちにふっと泣きやんで,それ以来それがSちゃんの朝の挨拶になりました。「何が好き?」「折り紙が好き?」と言って私たちがうろうろしている間に子どもたちはしっかり仲良しになっていたのです。

 子どもたちが,ことばを発しないSちゃんにとても自然にことばをかけてかかわっている姿を私は訪問中に何度も見ました。Sちゃんがみどりの絵の具を使って絵を描いているときにそばにきたT君はSちゃんの絵を見て「みどりの風のようだな・・・」と声をかけていました。にこにこ笑顔で応えるSちゃんを囲んで友だちの輪ができ,語らいが続くのです。きっと安易に「ことばを発しない」というような貧しい表現を用いてしまう私には聞こえないSちゃんのことばを子どもたちは目や表情やからだからしっかり受けとめているのでしょう。

ぶつかりあい,育ちあう仲間

 神愛に来て1,2年目の頃のことです。自分のクラスの子どもではないのですが,1年上のクラスに脳性マヒのS君がいました。ある日,他の何人かの男の子とけんかが始まってそれこそ真剣勝負みたいなけんかになったんです。S君は興奮すると硬直するタイプの子どもなので,体がうまく動かない。ことばももちろんうまく話せないのです。当時の私は自分が担任だったら中を割って入りたいくらいの気持ちでした。ところが,1年先輩にあたるそのクラスの担任は,ずっとそばで子どもたちの様子を見ておられるんです。段々エスカレートしてきて相手の子たちが「あやまれ」とか言いながらS君の体にのっかっているんです。するとそれを見たクラスの他の子どもたちがどっとやってきて「どうしたんだよ?」と声をかけ,子どもたちだけでどうしてそうなったのかを聞きあい始めました。原因は何人かの子どもたちが共同制作したおもちゃをS君がこわしちゃった。そしてあやまりもしないのでけんかになったとのこと。最終的にはS君が「ごめんね」とあやまったのです。するとそれまでだまって見ていた担任が「なかなおりしたんだ」となにげなくくつぶやきながら子どもたちの横を通っていったんですね。私は胸から何かがストンと落ちる思いでした。私にはその子たちがどういうふうに対処するのか予測もつかなかったし,たぶんそれが不安で中に入りたかったんだろうなと思います。彼女は子どもたちにまかせておいて大丈夫という確信があって,そばを離れなかったけれど,ずっとそうやって見ていたんだろうなと思いました。このことは今も自分のなかに印象深く残っています。

 1日中長い時間をいっしょにすごしていく保育園の生活というのは,たぶん幼稚園で短い時間をすごすのとちがって,子どもも疲れているときもあれば,眠いときもある,体調のわるいときもあってというふうに「いいとき」ばかりじゃない。だけど,それでいいじゃないのって思うようになりました。お互いにそのときの正直な姿,気持ちをぶつけあって,そのうえで,つながりだとか,お互いのことを好きだと思える気持ちが育っていくんだろうなと卒園した子を見ていて思いましたね。

 保育園という生活の場で子どもとおとな,それぞれがさまざまな思いを共有し,共感するということ。現在の依田さんの生活基盤は長年子どもたちや仲間たちとのくらしのなかで自己研鑽し,手応えのあるつながりを求めてやまない思いのなかで培われていかれたのでしょう。子どもたちのなかにとても自然に仲間として溶け込み,かつ子どもたちがなくてはならない存在として受けとめている依田さんの滲み出る人間性の源泉をかいま見る思いでした。



いつの日も子どもとともに

 神愛保育園で11年勤められた後,依田さんは家族の看病のため,一時退職されました。その当時はまさか7年後に同じ職場に復帰するとは夢にも思っておられなかったようです。ただ退職後も卒園児対象の行事などには参加し,つながりを大切にされていました。復職後の心の変化について依田さんは「以前より子どもとのんびりつきあえるという感じがしました。」と語られます。

 これはやめていた7年間,自分の子どもや卒園児たちとかかわるなかで思ったことでが,子どもの成長を保育園の5,6年間だけに縛られるのではなく,小学校へ行ったり,中学校へ行ったりする流れのなかで,捉えるということをするようになりました。もちろん乳幼児期の6年間というものは大切にしたいですが,私たちとの出会いのなかでかならず花開くとは限らない。私たちとの出会いのなかでは何も見つけられなかったとしても,その子が一生何も見つけられないかといったら決してそうではなく,またちがったステップで見つけられるかもしれないというのを確信するようになりました。自分の娘や卒園児の同窓会などで子どもの姿を見ていて思うのです。この子,保育園のときはこんなふうになるとは思ってもいなかったのに・・・というのがあるでしょ。学校に行ってからすてきな先生と出会ったり,仲間と出会ったり,好きなことを見つけたりということのなかで育っていくんだなということが,自然に受けとめられるようになりました。だからしゃかりきしゃかりきとしなくてもいいように思うようになりましたね。特に昔は年長クラスを受け持つと,あと3カ月でとかあせったりしていたのですが,そんなことしなくてもいいんだと思うようになりました。

                           いま
 子どもにとって,長い年月のなかでの現在,だけど現在は現在しかないし,ひとりひとりの子どもの思いに寄りそいながら,じっくりとつき合っていきたいと思っています。


 依田さんの話を聞きながら,私の脳裏には今春工芸高校を卒業したひとりの女の子の顔が浮かんできました。保育所時代からとびっきりおとなしい子でした。運動会のとき跳び箱が飛べずにずっとたたずんでいた姿は私の当時の保育を反省するときにかならず思い出す光景です。小学校や中学校でも自分を発揮する場があまり見つからなかったようだなと毎年送られてくる年賀状から彼女の様子を想像していました。工芸高校に入学した年,その子は作品展の案内状を送って来てくれました。その文面を読んだとき,学校で輝いている彼女を感じることができたのです。「学校はとても楽しいです。一所懸命作って,みんなで作品展を成功させますので,保育所の子どもたちと散歩がてらぜひ見にきてください」といった内容のことが力強く書かれていました。あのYちゃんが!と私は何度も葉書を見て胸を熱くしたものです。作品展の会場となった神社の広々とした境内には数えきれない風車がまわりつづけていました。このなかにあのYちゃんがつくった風車がまわっているというのを感じながらその風景のなかで私は彼女の青春を感じていたのです。子ども時代という長い人生の一こまをともにするということ,私はその一こまはきれることのないいのちの連続性のなかでみえない関係として私のなかにつながりつづけていると思っています。そしてかつてくらしをともにした子どもたちの歩みに自らの歩みを重ねていけるような生き方をしたいと常々願っているのです。

 幼い頃,あこがれていた幼稚園の先生のようになりたくてこの仕事を選んだと話されていた依田さん。その話を聞きながらいつか神愛保育園に依田さんがともにくらした子どもが保育者としてやってくるような予感で胸をふくらませていました。

 地域を支え,地域に支えられながら存在しつづけている神愛保育園を訪れ,依田さんや子どもたちと1日すごすなかでこのぬくもりはひとりひとりのぬくもりであると同時に保育園のぬくもりであり,地域のめくもりであることを感じました。生活の質というものは与えられた環境の中身ではなく,その環境にいかに働きかけ,活かしきることができるかということ,そこに生活する人たちのふれあう心のなかで育まれていくものなのでしょう。



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