子どもと生きる

〜いのちをわかちあうくらしを訪ねて〜

(ミネルヴァ書房「発達」69号,1997:冬 連載第8回)



二年越しの出会いを求めて

2年ほど前になるでしょうか。私はあるTV番組で大阪にある緊急一時保育所の存在を知りました。保育に長年携わるなかで今までさまざまな保育施設を見学してきましたが、いわゆるベビーホテルと称されている無認可の緊急一時保育所には訪れたことがありませんでした。営利目的ではなく、自らのくらしのなかで緊急一時保育の必要性を実感して行動にうつされたという開設当時の話に胸を熱くした思いが今なお心に残っています。

いつか訪れる機会をもちたいと漠然と願っていたのですが、今回二年越しの思いがかなえられたのです。画面から飛び出しそうなくらいエネルギッシュな所長や職員の方たちを思い出しながら、またひとつ心の幅が広がるような予感に胸をおどらせ、私は岸和田かおりさんの経営する『ベビーハウス24』へとむかいました。


ベビーハウス24に集う人々−−岸和田かおりさんをたずねて

 近鉄河内松原駅から車で約十分、駅前から少し離れた住宅街の一角に『ベビーハウス24』は建っています。「駅前からタクシーに乗れば、名称だけで横付けしてもらえますよ」と事前に岸和田さんから聞いていたのですが、実際そのとおりだったのです。まさしくニーズの高さを物語っているようでした。

 出迎えてくださったのは、保母さん二人と五人の子どもたち。赤ちゃん二人は午睡中でした。人懐っこい子どもたちといっしょにあそんでいると、まもなく所長の岸和田さんが出勤してこられました。岸和田さんは連日夜勤のため、ふだんは夕方に出勤されるとのこと。取材のため、早く出勤してくださったにもかかわらず、元気な張りのある声とはつらつとした笑顔にしばし圧倒されました。

 ベビーハウスに集う子どもたち、大人たちはさまざまです。時間も条件も年齢も・・・。突然やってくる人もあれば,事前に何度も足を運び,やっと決心して来る人。電話で何度も相談し,前まで来て帰っていく人など。一日ここですごし,岸和田さんや職員の声に耳を傾け,保護者の思いに出会い,子どもたちとあそぶなかで,いままで気づかなかったこと,見えなかったことが私のなかに大きくせまってきました。そんな私の眼で捉えた『ベビーハウス24』をお伝えしましょう。

毎日ちがう仲間とのくらし  この日の出席は7人。といっても時間帯によって人数も変わるし,突然ふえることもあるのです。「今日は,月契約で毎日来ている子や不定期であっても慣れている子が多いのでおちついているのですよ」と岸和田さん。そういえば誰も泣いていませんでした。一人が泣きだすと大パニックに陥ることもしばしばとのことです。保育室は家庭を思わせるような暖かい雰囲気で,日当たりもよく,どの子もリラックスしてすごしていました。牛乳パックを利用した手作りのソファーや廃品利用のドアなどお金をかけずに人間の知恵と手を使っての工夫がうかがえます。ここの経営方針がおのずと伝わってくるようです。

 ベビーハウスにやってくる子どもたちは主に〇歳から三歳くらいの乳児たち。いる時間もそれぞれです。この日もっとも早くおむかえに来られたお母さんはお昼前でした。歯医者さんに行く間あずかってもらったとのこと。食後にお迎えに来られたのは深夜勤務明けの看護婦さんのお母さん。入れ代わりに夕方まであずかってほしいと来られる方もありました。夕食を食べて帰る子もあれば夕方から来る子もいるのです。送迎時の様子を見ていると,単に親の都合だけで預けるというのではなく,そこにはそれぞれの家庭の事情,くらしそのものを親も子もいっしょに背負い,生きているというたくましさや親愛の情が交錯しているように感じられました。

くらしを支えあう仲間として  子どもたちの午睡時間に私は主任の越智さんと話しあう機会をもつことができました。以前民間の保育所に数年間勤めておられたという彼女は,はじめはここを普通の保育所だと思ってやってきたと話されました。

 「はじめて所長の話を聞いたときは,すごいなと思いました。確かにこういうことが必要だなと思いました。実際緊急事態に対処できる保育所なんてありませんものね。所長の思いに共感して働くようになり,そのまま抜けられないようになりました。とても魅力のある職場でやり甲斐があります。みんないいひとたちばかりですし・・・。」

 職員の人たちの思いが越智さんのことばに象徴されているように私には感じられました。若い保母さんたちはここの存在を知り,自ら飛び込んで来られたのです。

 「以前保育所にいたときもいろんな子どもさんが来られていましたが,ここにきてもっとさまざまな子どもたちと出会っています。やはり,家庭環境と子どもって切っても切れないし,いろんな意味でしんどさやひずみを背負っています。でも,みんなたくましいですよ。」

 このような職員の仲間意識はきっと所長である岸和田さんとの連帯のなかで培われたものなのでしょう。私は午前中の保護者との話しあいの感動場面を思い出しました。保護者の経済的負担を出来る限り少なくするための努力,設備面での工夫や職員はすべて時給でボーナスもないなどの話を岸和田さんがされているのを聞かれたお母さんが泣きだされたのです。「安心してあずけられる所と信じていたが,そこまで努力していただいているとは思ってもいなかった」と話されていました。

 岸和田さんは6年間を振り返るように話されました。
 「ここを始めた当時は利用されるお母さんたちは,少しこそこそした感じだったんです。一時保育とか,子育てを人に委ねることがまだまだ社会的に認められていなくて,家族に内緒で来られる方もありました。しだいにここが新聞などに取り上げられるようになったり,社会の流れも変わってきて,子育て支援の必要性などがいわれるようになり,お母さんたちの気持ちも楽になっていったのでしょう。ここに来られる姿が変わってきました。それまではここはお母さんの駆け込み寺的な所で,お母さん一人で悩みながら来られていたのが,このごろは夫婦で相談して堂々と来られるといった少し開けた悩みになってきました。

 お母さんの悩みやしんどさも私たちは受け止めているし,私たちが一所懸命やっているというのもお母さんたちに知っていただいているという感じなので,この六年間なんとかやってこれたのだと思います。私たち職員としてはお母さんたちと共同体としてがんばっているんだという気持ちが常にあるんです。」

 一言では語れない六年間の重みがひしひしと伝わってくるようでした。


大地に根をはるがごとく−インタビューより−

 岸和田さんが緊急一時保育を始められたのは,子どもさんが七歳を筆頭に四歳,一歳三ヵ月の頃。彼女自身子育て真っ最中だったのです。その時期にあえて社会的にも経営的にも厳しい仕事を選ばれた思いを聞きました。

 私も夫も両親を早く亡くしていて,二人目の出産に際して長男をみてもらう人がありませんでした。夫は自営業で当時新しい店をオープンしたばかり。一般の保育所に預けるとしても一番忙しい夕方の保育は保障されません。そうこうしているうちに出産を迎えてしまったのです。その時助けていただいたのが同じマンションに住んでおられた同年齢の子のお母さんでした。一週間あずかってあげると言ってくださってあまえることにしたのです。その時はじめて他人の親切を身にしみて感じました。その頃はほんとうに助かったというだけの思いだったのですが,私が恩返しをする前にその方は急死されたんです。

 そのことをきっかけに私のなかで社会的なもの−−緊急時に子どもを安心してあずかってもらえる機関がない−−や,教育的なもの−−それまで育児の片手間にしていたピアノ教室や家庭教師の仕事−−について自分の生き方と重ねて捉えかえすようになりました。


 実際に緊急一時保育『ベビーハウス24』が実現するまでに,その後四年という歳月が経過しています。その間三人の子どもの子育てに奮闘しながらも温めつづけてこられた情熱を私は感じずにはおれませんでした。彼女をして実現せしめたもの,夢を支え続けてきた基盤というものをもう少し深く探ってみたくなりました。  私たちはすごく反対されて結婚したんですよ。歳も離れていましたし,今から思うとそんなに大したことではないんですが,そんな状況のなかで結婚したということもベースになっているのかもしれません。自分たちの生き方を貫きたいという思い,常にそれがあって,緊急一時保育を始めたいという私の夢も何度かくじけそうになったんですが,実現できました。それに夫の支え,というより,叱咤激励がすごかったですね。私は自分の子育てが一段落したらいつかやりたいと思っていたのですが,夫は「そんなに思うんだったら,全面的に協力するから早く実現しなさい」と言ったのです。夫の説得は続きました。「こういう仕事は子育ての悩みやしんどさをかかえているものがやるべきで,緊急一時保育を一番求めていた者がつくればきっと利用してくれる人がいてくれるはずだ」と言われ,私にはその使命があると暗示にかけられたような思いになりました。自分もそれに「のろう」と思ったんです。同じやるならやりきってみたいと考えました。親に反対されて結婚して,子どもたちにお金とか家とか財産は残してやれないけれども生きている証のようなことを残していきたいという思いが共通してあって,それはこういうことかなと思ったんです。

 場所は,私の決心を促すかのごとく,先に決まりました。この建物は駅から遠いので迷ったのですが,ここは施設としてはかなりの空間がとれるし,部屋も明るいでしょ。緊急一時保育のイメージを一新したい思いのなかで決定しました。それに家主さんが私たちの目的に共感して下さり,家賃なども考慮していただけたんです。二十四時間保育というと,狭い密室のイメージをもったり,本当に資格のある人がやっているのかなと思われがちです。私たち同業者でも明るいニュースを聴くことは少なかったのです。私自身は,そのような方向を変えるような,明るい場所に出してもいいものをつくりたいと思い,今の社会がそれを育てていくのだと,出発しました。

開かれた存在をめざして  現在,一三〇〇人の子どもが登録されています。社会的ニーズを考えると私たち全員がこの仕事を使命として受けとめています。でも,運営はかなりきびしいです。今までにも何度かもう続けられないとあきらめかけたことがありました。でも,そのたびに夫や職員にはげまされ,いっしょにがんばってここまできました。いろんな人たちとつながり,話していくうちに,ここを拠点として子どもの存在というものを社会にアピールできるのは,この方法でアピールできるのは,私たちだけだなという自覚をもつようになりました。あずける側が公的補助を受けられるなど社会にきちんと道をつくりたいという夢があるんです。ベビーハウス24の運営そのものとか,職員の給料がよくなることが一つは目的なのですが,私はこの仕事を通して,はじめて社会というものを見たという感じなんです。この仕事を通してただ,緊急一時保育をしていくだけでは,利用していくお母さんも開かれた利用の仕方ができていかないし,ベビーハウス24そのものも開かれた存在になっていきません。

 そこで,松原市をはじめ南河内全域,大阪市も含めて近郊地域の役所,児童課へ足を運ぶことから始めました。「民間ですが,オープンでやっていますので,ぜひ来てご指導ください」とお願いしましたが,最初は冷たい対応でしたね。しかし,だんだんと一所懸命やっていることを評価され,現在ではだいぶコミュニケーションもとれるようになりました。

 次に私たちが考えたのは『青空子どもまつり』です。数を集める署名運動より,直接的に自分たちの居場所から子どもたちの存在をアピールしていこうということで始めました。おまつりはお金をかけず,人手と時間をかける手作りを大切にしています。ですから,段ボール屋さんに行ってイベントの趣旨を説明して,段ボールをいただいてきたり,いろいろな人に理解と協力をお願いすることから始めています。『青空子どもまつり』という機会をとおして,ここの存在をアピールしているのです。バザーもするんですよ。こういう台所事情の悪い所はたいてい収益金を施設運営費に使ったりするのですが,私たちはすべて寄付します。話し合いの末,売り上げを自分たちのために使うより,社会にアピールしていく方が自分たちの目標には近道だということになったんです。年々理解していただき,地域に根ざしたイベントとして楽しみにしてもらうようになりました。

 日常的には,ポスター貼りや病院などいろんな場所に緊急一時保育所の存在とその内容の説明に出向いています。私だけではなく,職員も休日を利用して行ってくれています。ここの存在を知らせるということと,社会が緊急一時保育をどう思っているかという現実のきびしさに職員自ら出会ってほしいと願い,始めました。最初は「名刺も受け取ってもらえなかった」ととんで帰ってきていましたが,こうした経験がみんなを鍛えていったのだと思います。今では問い合わせや相談ごとの電話がかかってきても,全員が上手にお母さんの気持ちを捉えて的確に応対できるようになりました。


 ベビーハウス24にいると,社会の縮図や矛盾がさまざまな角度から見えてくるのでしょう。私は大学に入り,福祉を学び始めた頃のことを思い出していました。学習やボランティア活動を通して日本の福祉の歪みを実感した私はそれをソーシャルアクションにまで高める方向が見いだせず,挫折した思い出があります。それ以来,現場に身を投じることを自らのいのちの課題としてきました。岸和田さんをはじめ,ここの仲間たちは自分たちの活動をソーシャルアクションにまで高め,力強く社会に向かって揺さぶりをかけておられるのです。そしてそれらを自らの生き方と重ね,検証しつつ歩んでおられる姿勢のなかに私はひさびさに生きるということの熱さをみることができました。


母親の願いに応えて

 訪問中,私は何人かの保護者の方と出会い,生の声に耳を傾けることができました。

 朝,母親の通院の時間帯だけあずけられたAさんは,以前育児不安のため訪れられたとのこと。アドバイスを受け,励まされるなかでわずかな時間をリフレッシュのために活用し,今ではゆとりをもって子育てをされている様子でした。午後一番にお迎えにこられたBさんは看護婦さん。深夜勤務のときなど父親と母親が育児を交代する時間の狭間を保障してもらっておられます。夕方お迎えに来られた月契約のCさんは公務員。育児休暇の後,保育所に途中入所できず,ベビーハウス24にあずけて仕事に復帰されています。夕方から両親で送って来られたDさん夫婦はともに塾の教師をされています。どの保護者も語っておられたのは,「すぐにあずかってもらえる所を調べることから始まって,子どもにとっても親にとってもいい所を探したいと思いました。わが子をあずけるのは勇気のいることです」ということでした。来られる形態は違っても,子どもに対する思いや悩んでおられるネックの部分は共通していることが多いのでしょう。

 私もまた,母親として以前同じ思いで産休明け保育所の門をくぐりました。それまで当たり前のように自分自身が保母として〇歳児保育に携わってきたのですが,いざ自分の子どもをあずけるとなると,身を切られる思いで涙がでてきたのを二十年経った現在も鮮明に記憶しています。その時はじめて,子どもをあずける親の思いを自らの思いと重ね,実感することができたのです。そこを起点に家族−保育施設−地域−社会が一体となり,そのなかで<育つ>ということを考え続けてきました。子育ては<母親の手で>から<父親の参加>が訴えられるようになり,今は<地域で子育て支援>が広く唱えられるようになってきましたが,実際それらの多くを,底辺を支えているのは,民間施設であり,無認可と呼ばれている所なのでしょう。
 そんな現実のなかで岸和田さんが終始言いつづけておられました。

 私たちは万全の体制を整えていつでもだれでも受け入れられるようにしています。しかし,経済面での応援がないのです。私たちはできる限りの努力をして安くしていますが,利用される方にとっては経済的な負担が大きい。実際入り口まで来て帰られる方がおられます。そこが,現在の社会的な子育て支援の問題点じゃないかと思います。


子どもとのくらし−内実を求めて



 二十四時間子育て支援をモットーにひたすら走り続けてこられた岸和田さんですが,この春六年目にしてはじめてスランプに陥ったと話されました。その後,一ヵ月は自分を見つめ直すための放浪の旅。いままでのくらしでは考えられないことでした。連日の夜勤や運営・保育すべての指揮を一切放棄し,他の職員に委ねて解放と学びの時間,空間をもたれたのです。職員にとっては,判断力が試されたときであり,力が発揮できた場となったのです。それ以来,それぞれの仕事ぶり,関係が微妙に変化したと岸和田さんは回顧されます。指導し指導される関係ではなく,ともに『ベビーハウス24』を支えあい,つくりあう仲間として私の目に映っていることが,きっと春のもっとも大きな成果なのでしょう。

 そんな仲間のために岸和田さんは運営面での保障や安定があればもっと余裕をもって研修や研究活動ができるのに・・・と静かに語っておられました。「ここでは保育内容のレベルだけを求めてはだめだと思いますが,やはり『心のケアだけでなく,保育も一流やね』と言われるようになりたいですね。そのためにも学べる時間と余裕を仲間に提供していくのが私の務めだと思っています。」

 公的機関に勤め,一定の保障を受けている私にとっては自分の位置から深く考えさせられることばでもありました。私にとってベビーハウス24の仲間たちと連帯するということは,自らの足元で公的施設だからこそできることをしっかり見定め,より豊かに提供できるよう,ときには流れに逆らいつつも,歩いていくことではないだろうか。そこからさまざまな仲間と手をつないでいきたいと願っています。


〔『ベビーハウス24』の施設案内〕  『ベビーハウス24』は、保護者の急用・仕事・病気・事故・出産・冠婚葬祭・介護などで保育ができなくなった際,いつでもすぐに一時的に子どもをあずかり,保育する施設です。

 それまで一主婦であった岸和田さん自らが子育てのなかで緊急一時保育の必要性を実感され,六年前に設立されました。年中無休,二四時間体制で子育てを応援し,子どもたちの健やかな成長のためにがんばっておられます。

 開設以来,さまざまな報道機関で紹介され,緊急一時保育の社会的ニーズを世に問う場を多くもって来られました。『ベビーハウス24』を発信地にして,子どもの生きる権利を社会的に保障していくことの大切さ,地域でともに支えあう仲間づくりをめざして,活動されています。

 所在地:大阪府松原市立部1-191 TEL : 0723(30)6540



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